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医療用手袋、今すぐパウダーフリー化を [プロテスト]

供給停止後も使用禁止ではない日本の現状

医療者と患者の双方を防御するために使用される医療用手袋について、2016年12月、米食品医薬品局(FDA)はパウダー付き手袋を「使用する医療従事者と患者の双方の健康に有害」として使用を禁止すると発表した。

これを受け、わが国では厚生労働省が「2018年12月31日までに医療用パウダーフリー手袋への供給切り替えを求める」との通達を発表した。

しかし、日本では流通が禁止されても、使用は禁止されておらず、パウダー付き手袋の危険性がいまだ十分に認識されていないという問題もある。

国保中央病院(奈良県)緩和ケア科・加藤恭郎部長が、第4回日本医療安全学会で報告した。

スターチ腹膜炎の認知が不十分

医療用手袋にパウダーが使われている理由として、ゴム素材への「非粘着性」および「低摩擦性」の付与が挙げられる。

パウダーに用いられる原料としては、コーンスターチ(トウモロコシの澱粉)しか使用できないことになっているが、このパウダーが患者の炎症、癒着、肉芽腫などの誘引となることが明らかになっている。

欧米では、開腹術時に腹腔内で使用した手袋のパウダーに対する反応である「スターチ腹膜炎」がよく知られているが、

「日本では教科書にも記載されていない」と、加藤部長。

消化器外科医である同氏は、スターチ腹膜炎の16歳の女性患者を経験した。

パウダー付き手袋を用いて開腹虫垂切除術の術後10日に腸閉塞および炎症〔C反応性蛋白(CRP)の上昇〕を認め、再入院となった。

その後、保存的治療で改善せず、術後12日目に再手術となった。

再手術時点での診断は癒着性小腸閉塞で、術式は腹腔鏡下癒着剝離術を選択した。

ところが、再手術後も再び腸閉塞を来し、発熱、炎症、癒着が認められたことから、スターチ腹膜炎を疑った。

そこでパウダー液を用いて皮内反応を見たところ、発赤が認められたため、ステロイドホルモンのプレドニゾロンを投与した。

結果、急速に炎症反応が治まり、再度手術を行うことなく退院することができた。

「このように、スターチ腹膜炎は診断されずに手術が繰り返される可能性がある。

スターチ腹膜炎であることに気が付けば、急性期の炎症にはステロイドホルモンが有効である場合が多い。

気付かずにパウダー付き手袋で手術を行えば、手術を繰り返すという悪循環になる」と警鐘を鳴らした。

供給停止前に買いだめを図る施設も

スターチ腹膜炎に関して、1960~2015年に報告された文献数を見ると、米国の110件に対し、日本ではわずか7件しかない。

なぜ欧米では広く知られているスターチ腹膜炎が、日本では十分に認知されていないのか。

加藤医師の考察によると、米国ではパウダー付き手袋に用いられるスターチパウダーが1947年に実用化されたが、その時点でパウダーは安全性が高いものではなく、吸収が遅れたり、吸収困難に至る可能性があることなどが報告されている。

一方、わが国では1957年にスターチパウダーが実用化されたが、その添付文書には、

「必要量の3倍でも癒着全くなし」「粉末は漿膜表面から完全に吸収」「1年使用で癒着の危惧全く不要」といった文言が記載されている。

そのため、スターチパウダーは"安全で全く害がない"との見方がそのまま広まったのではないかと考えられるという。

手術用手袋におけるパウダー付きの比率を2008~15年で比較しても、欧米では30%前後であったのが10~14%に下がっているが、日本は65%から37%にまでしか低下していない。

同氏は「日本は、欧米に10年遅れている状況だ」と指摘。

またパウダー付き手袋は、患者だけでなく医療者にも手荒れ(乾燥、機械的刺激による刺激性接触皮膚炎)を引き起こし、皮膚のバリア機能を低下させることでさまざまな害を及ぼすと強調した。

さらに同氏は、日本における問題として、厚労省は2018年末までに「パウダーフリー手袋への供給切り替えを求める」としているだけで、「使用禁止」とはしていないことを指摘した。

FDAは2017年1月18日からは供給済みパウダー付き手袋の使用も禁止している。

国内では、パウダー付き手袋を今のうちに買いだめて、供給停止後の使用を図る施設も見受けられるという。

 二重手袋の普及を

こうしたパウダー付き手袋の危険性を報告した加藤医師は、最後に二重手袋について紹介した。

手袋は一重の場合は、術中の損傷(穴が開く)が15%ほどで認められることが報告されている。

一方、二重に装着(二重手袋)すると、外側の手袋が損傷しても内側の手袋の損傷はほとんど起こらないことが報告されている。

すなわち二重手袋を用いることで、手術部位感染のリスクが低下できる。

また、針刺し事故による医療者の感染予防につながることも報告されている。

パウダー付き手袋は内外面にパウダーが付着しているため、二重装着が容易だが、パウダーフリーの手袋では二重装着がやや難しくなる。

そうした中で、「二重装着下履き用パウダーフリー手袋」が開発されている。

この下履き用手袋には、内外面に滑り加工が施されており、色違いの外履きと組み合わせることで、外側の手袋が損傷した場合の確認が容易であるという利点もある。

二重装着下履き用パウダーフリー手袋は原料として天然ゴムラテックスを使用している製品も一部にあるが、大多数は合成ゴム製だという。

合成ゴム製手袋は、「パウダーフリー」「二重装着が容易」「ラテックスフリー」という3つの利点を兼ね備えていることになる。

同医師は「このように優れた手袋が普及していない理由として、まだ存在が十分に知られていないこともあるが、コストの問題もある」と指摘。

手袋の単価は、パウダー付きで約70円、パウダーフリーで約90円だが、合成ゴム製では200円ほどになる。

たとえば、手術1,000件を外科医3人と看護師1人の計4人で行い、術中に手袋を2回交換すると、パウダー付き手袋を一重で用いると84万円だが、合成ゴム製手袋を二重で用いると320万円になる。

医療施設では膨大な手袋を使用するため、こうしたコスト面で、なかなか導入に踏み切れない施設もあるという。

「合成ゴム製手袋を二重で用いた場合には診療報酬面でなんらかの加算を認める、天然ゴム製手袋も法律で規制するなどの行政による動きかけがあれば、普及が進むでのはないか」と加藤医師は展望した。

(髙田あや)=『Medical Tribune』2018/03/13より。 

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学芸通信社に関する総括 [プロテスト]

 卑劣な虚言

 あれから1年10カ月、2度目の正月を迎えるが、キミはまだ怒っているのかね?

 ──もちろんだ。激しく怒り、軽蔑している。ツバを吐きかけてやりたい。

 最大の理由は何かね。

 ──会社ぐるみで卑劣な小汚い虚言を弄したことだ。

 25年余、9000回以上も続けた記事の打ち切りを、突然、一通の手紙で通告してきて、その理由をこう述べていた。

「大震災の被災地の新聞、S、F、Jの3紙の新聞社から『健康歳時記』の配信の中止を連絡してきました。  一気に3紙の配信中止となりますと、配信するごとに赤字となってしまいます。
 この状況をどうするか、先週末、社内で検討しました。
 大変心苦しいのですが、上半期が終わる6月下旬をもちまして、[健康歳時記]の配信を中止することとなりました」

 これがすべて真っ赤なウソだったのだから、呆れ果て、哀れみ、憫笑しつつも、心底、怒りを禁じえなかった。
 3月11日からまだひと月ばかりのあの時期に、よくこんな無神経な薄汚いウソを「社内」で「検討」できたものだ。どういう会社なのか? 社長の顔を見てみたいよ。

本当に経費面でそういう事実があったのではないのか?

 ──おれも最初はそれを信じた。で、それならば赤字にならない原稿料は? と聞いてやったら、
「ご質問いただいた原稿料減の引き合いについて、他のコラムの配信状況や人件費などの諸事情もあるので明確には言えませんが、現在の状況では一本当たりだいたい45%~50%減(3000円くらい)となってしまいます」と言ってきた。
 では、当面、それで継続するのはどうかと提案したところ、
「今までも安価で原稿を書いていただいているのに、その半額近くで書いていただくのは申し訳ないし、逆にその値段では失礼になる、継続してもその値段では、テンションの維持は難しいなどの意見が出ました。ご提案いただいたのにもかかわらず、申し訳ないのですが、やはり[健康歳時記]は6月で終了することとなりました」という返事だった。

 だが、実際にはコラムそのものは終了しなかった?

 ──そうだ。3紙の掲載が中止になっても10紙以上は残るのだから、そもそも「配信するごとに赤字になる」というのがあり得ないし、それにF紙は5月から、S紙は6月から『健康歳時記』の掲載を再開したのだ。そのことについては、このブログの『G芸通信社への追伸』に記した。

 それでも、6月で配信を停止するというので、では、『健康歳時記』という欄は、6月下旬分の原稿で、すべての新聞から消えるわけだねと聞いてやったら。
「健康歳時記につきまして、弊社からの配信による『健康歳時記』はなくなります。今でも弊社の配信とは違う『健康歳時記』というタイトルのコラム(いわき民報など)もありますし、各々の新聞社で『健康歳時記』というタイトルを使う可能性はあります」となんだか持って回ったあいまいな返事が来た。
 そこで、要するに、7月以降の各紙で『健康歳時記』の掲載が続いても、それは学芸通信社とは無関係、ということですね。と念押ししたら、
「メールを拝読致しました。おっしゃるとおりです。各紙で掲載の時期が若干ずれていますので、7月の初旬頃までは、いずれかの新聞で丸山さんに書いていただいた『健康歳時記』は掲載するかもしれませんが、配信は6月下旬にいただくもので終わりです。その後は、どこかの新聞社で『健康歳時記』と銘打っていても弊社のものではありません。よろしくお願い申し上げます
 なにが、よろしくお願い申し上げます、だ
 そう言いながら、7月からは別のライターによる同じコラムの配信を続けたのだ。品性下劣な二枚舌というほかない。

「上半期が終わる6月下旬で配信を中止」と言ってきたのは、4月中旬のあの時点では、まだ次のライターが決まってなかったので、それを用意するための時間稼ぎだったのだろう。なんと小ずるいウソをつくものだ。そのいじましい心情を想像すると、いっそ哀れでさえある。

 なかなかゲイが細かいなあ。

 ──社名に「学芸」と冠するだけあって、ガクのある知恵者がそろっていて、人をだますのもお得意なのだろう。
 社内会議で、ライターを変えるのはいいが、大震災にかこつけるのは、まずいのではないか、という人間が一人もいなかったのか。たとえ10人そこそこの小さな会社でも、一人ぐらいはまともな人間がいたっていいではないか。

 しかし、ずいぶん嫌われたものだな。

 ──なぜ、嫌われたのか。そのことについては、『あほんだら日本語格闘記』2~5に詳述した。
 おれは仕事というのは、意見を出し合い、議論しながら進めるものだと思っているが、彼らはそうではなかったということだ。

 用字・用語のことだね。それは共同通信社の『記者ハンドブック 新聞用字用語集』に準拠することになっているのだろう。

 ──そうだ。しかし、記者ハンドブックにも、

「表記例のうち、漢字で掲げてあるものは、原則として漢字書きにするが、漢語を除いて平仮名書きしてもよい。文章の硬軟、文脈に応じて平仮名書きを活用する。また平仮名書きの表記例は必要に応じて片仮名書きにしてもよい」と記されてあるのだ。
 だが、彼らは、漢字書き以外の表記はがんとして認めようとしない。こちこちの杓子定規、どうしようもない石頭だった
 そのくせ、2010年10月、「改定常用漢字表」が発表になり、『記者ハンドブック』の改訂版が出たあと、こちらがその「新常用漢字対応版」に準じた原稿を送ったら、それらの漢字を一々、平仮名に直してきた。
 いや、これらの漢字は新常用漢字では使えることになったのだよと言ってやったら、「ずいぶん増えたのですね」という能天気な反応だった。
 本来なら向こうから「常用漢字が増えました」と言ってくるべきだし、これまでは()でくくる読み仮名つきだった漢字がそうではなくなっていたら、あ、これ、新常用漢字だなと気づくべきだろう。日本語を扱う仕事のプロなんだから。
 結局、彼らの認識はその程度、まことにお粗末というしかなかった。
 

 虫けら以下のウジ虫

 しかし、いまごろなんと言われてもテキは痛くもかゆくもないだろうね。

 ──そりゃそうだろう。なにか感じるような手合いだったら、あんな恥知らずなことはできなかっただろうよ。

 恥知らずなウソをついても、やめさせたかった。よくよく持て余されたわけだな。

 ──「社内会議」とやらの結論を導いた中心人物が、我の強い底意地の悪い女性だからね、それくらい道理の通らぬ意地悪は平気でやるだろう。

 ひと癖あるご婦人のごキゲンをそこねたわけか。でも、25年、それなりに貢献してきたのではないのかね。

 ──その証拠の一例を、コラムの配信先の宮崎日日新聞の記事を借りて示したい。コラムの筆者の交代を報じた同紙の記事にこうある。

 ─前略─(健康歳時記は)学芸通信社が1977(昭和52)年から配信を始め、全国の地方紙や情報誌で人気を博してきた。
 ─中略─同社によると、日々のニュースとは異なる「気軽に読める医療記事」として配信を開始、当初は社内で記事を制作していたが、より専門的な内容を盛り込むため、途中から外部の執筆者に委託した。数人の担当者を経て、86(昭和61)年から丸山さんが執筆者となった。配信当初、掲載するメディアは2社だけだったのが徐々に増え、常に10社前後が掲載するように。
 ─中略─1万数千回に上る配信回数のうち、丸山さんは約9千回を執筆。─以下略─(2011年6月29日宮崎日日新聞)。

 読んで、へえ! と思った。おれが執筆を引き受けた1986年3月に聞いた話は、
「去年(つまり1985年)から始めた企画で配信先はまだ青森県のT紙、宮城県のS紙の2社だけ」なので、だから原稿料も安いけど……ということだった。
 で、5年経った1991年、連載の一部を本にしたとき(『ビジネスマン元気術』日本マンパワー出版)、巻末に掲載新聞名を記すためにたずねたところ9紙になっていた。

「1977年から配信を始め」て「数人の担当者を経」たというのが事実なら(ライターはだましても、おとくいさまの新聞社にウソを言うわけはないから、事実だろう)、9年間に何人、"選手交代"してもただの1紙も増やせなかったのが、おれに代わってからの5年間で7紙増加して9紙、2冊目の本(『読むサプリ』明拓出版)を出した2008年には15紙誌になっていた。少なからず貢献したといえるのではないか。

 なのに、ポイ捨てとは、ずいぶん見くびられたものだな、まるで虫けら扱いだな。

 ──まあ、虫けら同然のライターであるのは間違いないが、その虫けらをだますのに醜悪下劣なウソをつくやからは虫けら以下のウジ虫だよ。

 だけど、そんなひどい連中とよく25年以上もつき合ってこられたね。

 ──いや、はじめのころの担当編集者2人は、とても感じのいい人たちだったのだ。
 悪化したのは、3人目の口達者な小理屈の得意な女性と、その後継者の言い訳名人のとろい男になってからなんだ。
 何度も、もう止めようと思ったこともあったが、ガマンして続けられたのは、よい媒体と読者に恵まれたからで、それが大きな心の支えだった。
 配信中止のウソに気づいた5月の時点で、よほどすぐさま黙ってやめてしまおう、意地悪には意地悪で仕返ししてやろうと、大人気ないことをかんがえたりもしたが、それでは媒体各社に迷惑をかけるし、読者に失礼になると思い直した。有終の美とはいえないまでも、せいぜいいい原稿を書いて終りたかった。きれいごとを言うようだけど、そういうことだった。 

 昨日の敵は今日も敵

 さて、ずいぶん長々と言いたいことを言って、すこしは気が晴れたかね。

 ──いや、まだまだ言いたいことはたんとある。ヒマができたら、また怒りをぶちまけたい。昨日の敵は、今日も、明日も、未来永劫、敵なのだから。

 おれの人生、後悔と反省と自己嫌悪の連続だったが、半面、ちゃらんぽらん、のんべんだらり、煮えたぎる憤怒や屈辱などとは無縁に生きてきた。それはとてもありがたいことであったが、だらしないことでもあった。
 どたばた人生劇の終幕にさいして、人間らしい怒りをぶつける機会に遭遇したのは、奇貨おくべし。喜ぶべきことかもしれないな。
 ありがとよ、Aクン、Kクン、「社内会議」のご一統サン。

「総括」といふ凄まじき語のありき 命を懸けし自己批判として  清水房雄

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学芸通信社への追伸 [プロテスト]

 口木様。▽池様。

 あなた方はウソつきです。

 4月下旬の連休前に届いたあなた方(差出人は▽池さんでしたが、それには「健康歳時記」の前任担当者である先輩の口木さんの示唆が強く働いていたはずです)からの手紙には、こうありました。

「未曾有の大震災の影響で──略──F、J、S(手紙には実名明記)の三紙の新聞社が、『健康歳時記』の配信の中止を連絡してきました。一気に三紙の配信中止となりますと、配信するごとに赤字となってしまいます。──略──大変心苦しいのですが、上半期が終わる6月下旬をもちまして、『健康歳時記』の配信を中止することとなりました。」

 これ、全部、ウソですよね。

 当時の配信先は(小生が承知していた分だけでも)一〇紙ですから、三紙がなくなっても七紙は残るわけです。

 なのに、「配信するごとに赤字」とは、あり得ない話でしょう。

 先ごろ、F紙文化部のT部長からいただいたメールには、

〈「健康歳時記」は多くのファンがおり、人気のコーナーですが、震災後、弊紙もしばらく休載していました。「暮らし」ページの再開後、早くに「健康歳時記」も復活させました。〉とありました。

 また、S紙の情報デザイン局のIさんからは、お手紙で、

〈 震災直後、さまざまな事情から、配信原稿はすべてストップしたのですが、「健康歳時記」は読者に人気のコラムでしたので、真っ先に配信の再開を申し入れ、6月から掲載されました。それが間もなく中止になってしまい、本当に残念でなりません。〉と言っていただきました。

 つまり6月には、ほとんど旧に復していたわけです。

 小生は5月中旬、F紙の紙面に「健康歳時記」が復活していることを知り、「それでもやはりこのコラムは打ち切りになるわけですね」と問い合わせました。

 それに対する▽池さんの返事は、

「F紙ですが、弊社から営業をかけ何とか掲載していただけるようにはなりました。」というものでした。

T部長のメールの文面とはずいぶんニュアンスがちがいます

 さらに、小生に知られてあわてたのか、事態を取り繕うような欺瞞的な言葉が連ねてありましたが(F紙の方の耳に入ったらきっと気をわるくされるでしょうね)、それをここに引用するのは控えます。武士の情というやつです。(笑い)。

 そして、7月からは別のライターによる同じコラムの配信が行われています。

 事実は、「配信を中止」したのではなく、「筆者を代えた」のです。

 最初からそうする(つまり、だます)つもりだったわけだ。
 
25年余、それなりの貢献をしてきた(小生が担当するようになった当初の「健康歳時記」の配信先は二紙だけでした)、寄稿者に対して、ずいぶんひどい仕打ちだと思います。

 ま、それが、あなた方の人間性だったら、それでいいでしょう。

 こないだ、テレビでサッカーのコパ・アメリカを見ていたら、レフェリーの判定にしつこく抗議した選手が、即座に退場処分をくらう場面がありました。

「へぇ、文句が多いとレッドカードか」と言って、「おれのも、それだな」と思ったら、不意に笑いがこみ上げてきました。

 一緒に見ていた家人もすぐ、小生の胸中のつぶやきがわかったらしく、ぷっと噴き出し、しばらく顔を見合わせて笑いました。

 要するに、今回の一件はそういうことですよね。

 それならそうとハッキリ言うべきでしょう。

 しかし、それを言えば、ケンカになるから、別の理由を探したのでしょう。

 で、(こんな言葉は使いたくないが)「これ幸い」と、ウソの口実に大震災を利用したわけだよね。

 あなた方にも被災地を思いやる心はあるだろう。

だったら、たとえ余人の目には触れぬ私信であっても、そんな無神経な、卑劣なウソをついてはいけなかったのです。

 恥を知りなさい!
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学芸通信社への手紙 [プロテスト]

「バカ」や「わかる」は使ってはいけない。

必ず「ばか」「分かる」としなければならないと言い張る、通信社の編集者相手の議論の挙句、相手は、その連載記事「健康歳時記」の配信を打ち切ると言ってきた。

 理由は、大震災の被災地の新聞への配信が解除されて、経費面で引き合わないからだという卑劣なウソを口実にして─。

 以下は、同社への手紙の原文である。


 拝啓。

 長いあいだお世話になりました。

 このような結末を迎えることになるとは、まさに〝想定外〟のことでしたので、いささか不本意であり、気持ちが落ち着くのに時間がかかりました。

 そちらは数多くの配信記事の小さな一つを中止しただけでしょうが、こちらは四半世紀以上えんえんと続けて、生活の一部となっていた仕事ですから、喪失感の重さが全く違ったわけです。

 早い話、「大変心苦しいのですが、上半期が終わる六月下旬をもちまして、健康歳時記の配信を中止することとなりました」とおっしゃっても、その「心苦しさ」は、たぶん手紙を書いたあとはすぐに消失するたぐいの、レトリックでしかなかったのではないでしょうか。

 しかし、当方は、打ち切りを告知されたあとも一カ月余にわたって、従前どおりの駄文をつくり続けなければならなかったわけで、これはけっこう辛い仕事でした。

 連載中止の理由として、そちらが挙げたのは被災地の新聞三紙の配信の解除でしたが、それが理由のすべて─いや、一部でさえなかったことは、明らかです。

 おそらく本当の理由を告知することで生じる軋轢を避けるための婉曲な口実だったのだろうと思います。

 その親切な配慮に応えるふりをするのが、大人の知恵というものでしょう。しかし、それはどうも小生の性に合いません。

 なぜ、このような結末を迎えなければならなかったのか? 
 
 理由はたった一つ、拙稿の用字・用語についての、双方の理解ないし解釈の違いですよね。

 いまさら多弁を弄するのも詮ないことですが、たとえば「バカ」や「わかる」についていえば、「記者ハンドブック」にも、朝日や毎日の「用語集」にも、「馬鹿→ばか」「解る、判る→分かる」とあります。

 これは、「馬鹿」や「解る、判る」を用いてはいけないという指示であり、「バカ」や「わかる」を禁じているのではないと、小生はかんがえます。

 だから各紙の紙面に、「バカ」や「わかる」が普通にみられるわけで、文脈によって、適宜使い分けてよいのだろうと思います。

 事実、『記者ハンドブック』そのものにも
「表記例のうち、漢字で掲げてあるものは原則として漢字書きにするが、漢語を除いて平仮名書きしてもよい。文章の硬軟、文脈に応じて平仮名書きを活用する。
また平仮名書きの表記例は必要に応じて片仮名書きにしてもよい」とあります。(同書131ページ=「用字用語集 使用の原則」) 

 「バカ」や「わかる」がこの適応例であるのは、言うまでもないことです。

 確かめたわけではありませんが、共同通信自体の配信記事にも「バカ」や「わかる」は頻出しているのではないでしょうか。

それは、あなたが言われる「記者の癖」によるものでしょうが、

そもそも「記者ハンドブック」も「用語集」も、つまりは記者各人の恣意的な「書きぐせ」を排し、統一するために作られたものであり、しかし、その範囲内で許容される用語・用法の一例が、「バカ」や「わかる」なのではないかと思うのです。

 だから、なぜ、あなた方が、そのように「ばか」や「分かる」に固執するのか?  というのが、小生がずっと持ち続けた疑念でした。

「たんぱくしつ(蛋白質)→タンパク質」については、どうにも納得できず、お節介な手紙(配信先各社への「たんぱく質」使用を認めていただく)の見本を提示して、ようやく御社の許諾が得られたのでしたが、あの時点でも二、三の地方紙の紙面ではすでに「たんぱく質」が用いられていました。

「記者の癖」といえば、あなたと小生のあいだにもそれの違いがありました。

 そのためにしばしば生じた悶着?がエスカレートし、このような結末に至った大きな一因になったとも小生は思います。

 二、三、例を挙げると、「壮年の脳出血」という小文のなかで、小生のがん発症以来、一方ならぬ心配をしてもらった知人のくも膜下出血による急逝に触れて、

「お見舞いをいただいたほうはまだのんきに生きている。申し訳ないような不公平だ。」と書いた文の末行が、掲載紙の紙面では、

「申し訳ないようで不公平に思えた。」に直されていました。

 なぜ直されなければならないのか、小生にはわからず、ぐだぐだと文句を連ねて、
「あなたにも、おれにも、身についた語感というものがあって、それはお互い、尊重しなければならないと思います。ロクな文章じゃないけど、能無しは能無しなりに、考えながら書いているわけで、そこのとこ、わかってもらいたいと思うのは、ゼイタクな希望だろうか」とメールしましたが、あなたからの返信はもらえませんでした。

 また、脳卒中の前兆として起こる頭痛の症状を述べたあとの、「そんなときはためらわず脳外科を受診しよう」が、

「そんなときはためらわず脳外科で受診しよう」と、「を」が「で」に直されていました。

「脳外科で診てもらおう」や「脳外科で診察を受けよう」だったらいいが、「脳外科で受診しよう」はおかしい。小生には語感的に違和感がありました。

 百歩ゆずって、それもよしとしても、「脳外科を受診しよう」のほうが、すぐに病院へ行こうという勧めが明確に現れていると思うのです。

 意味が通じないわけでも、文法の間違いがあるわけでもない。なぜこんな無意味な直しをするのか、理解できず、ハラを立てたのでした。

 また、こんなこともありました。

 血圧の記事で、「脈圧」と「平均血圧」の意味を説明した部分、
「脈圧は心臓に近い太い血管の、平均血圧は末梢の細い血管の、硬化度の指標とされる」が、新聞の紙面では、
「脈圧は心臓に近い太い血管の平均血圧は、末梢の細い血管の硬化度の指標とされる」と意味不明の珍文に化けていました。

 で──、
 たかが「、」一個のことをグダグダ言いたくないので、言わせないようにしてください。 どうか、今後はこういう直しはしないでください。よろしくお願い申し上げます。─とメールを送りました。

 それへの返信の全文は、
 お世話になっております。メール拝受致しました。読点の件、すみませんでした。軽率に変えてしまったようです。以後気を付けますので、よろしく御願い申し上げます。─でした。

 しかし、その後もしばしば納得できない直され方に気づくことがあり、昨年七月から配信前の原稿を見せてほしいと要請しました。

 たぶん、そのことも今回のご処置の遠因になったのではないでしょうか。

 でも、言わせてもらえば、そのことによって、例えば、「庭花火をみなの声のいろいろな」が、

 「庭花火を みなの声の いろいろな」というヘンな句切り(「みなの声」ではなく、正しくは「をみなの声」)になっているのを避けることもできたし、

 最終回の原稿の「どこかの老人ホーム?」という単語に係る「?」のあとが、一字アキになっているのを、訂正することもできました。

 ま、しかし、考えてみると、そうしたことに固執し過ぎるのは、悪しき瑣末主義だったのかもしれません。また、偏狭な性格ゆえ、ついカドの立つ物言いになるというようなこともありました。 

要するに、小生とあなた─学芸通信社との相違点は、用字・用語法の一部についてのパーセプション・ギャップというか、許容度の差であり、結局、そこのところが最後まで理解し合えなかったのが、この結末につながったのだと思います。

 おそらく、今回、御社がくだした結論の直接的理由は、直前に交わされた「わかる・分かる」論議だったのでしょうが、論の正否がいずれに存するかは前述したとおりです。

 むろん、そちらにはそちらの主張があり、いろいろお腹立ちのこともあったでしょう。物言いがいささかエキセントリックにすぎる面があったことは認めますが、しかし、ハッキリ言っておきたいことは、小生が問題にしたのは、あくまでも記事の用字・用語、表現にかかわる問題であって、相手(つまりあなたや学芸通信社)に対する、誹謗、暴言、人格を否定するような発言はなかったはずです。

 二十五年余、自分なりに精一杯努力してきたつもりですが、結局のところ、お互い、分かり合えなかったということであり、それはどうにも仕方のないことだったと思います。思いますが、しかし、なんとも不明朗な幕切れであり、怒りを禁じえないのも事実です。

 反論があれば伺います。  敬具。
 
七月一〇日                        丸山寛之

 学芸通信社  □□□□様
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あほんだら日本語格闘記(5) [プロテスト]

 2011年7月17日。
「分からない男」のウソ

 昔、芸能レポーターのすっぱ抜き報道にハラを立てた、ある女優が、「あの人たち、みんなリッパな大学を出てるんでしょう」と言ったことがある。教養ある者が、なぜ、これほど低劣にふるまえるの? そう言いたかったのだろう。

 同じ台詞が、いま、おれの頭にも浮かんでいる。君、いったいこれまでどんな日本語を学んできたの? と。

「分かる」「わかる」でモメたとき、彼はこうも言って寄越した。

「弊社は不特定多数の新聞社に記事を売っていますので、統一基準を設けなければなりません。『記者ハンドブック』に掲載されている語句に関しては、個人的に判断せず、この本を基準にしようと考えています」

「不特定多数の新聞社」には、笑った。配信先の新聞社は特定されているのだから、「多数の新聞社」とすべきところを、語勢を強める余りつい「不特定多数」とやったのだろう。

 小なりとはいえ、各地の地方新聞に小説やコラムを配信している通信社の編集者が、なぜそんな書き間違いをするのだろうか? 要するに日本語がわかってないのだ。だから自分の質問を「ご質問」というなど、敬語と謙譲語の使い分けもできないのだ。

「個人的に判断せず」ではなく、はなから自分の判断を放棄しているのである。そう思うしかなかった。

 それよりなにより、『記者ハンドブック』には、「表記例のうち、漢字で掲げてあるものは、原則として漢字書きにするが、漢語を除いて平仮名書きしてもよい。文章の硬軟、文脈に応じて平仮名書きを活用する。また平仮名書きの表記例は必要に応じて片仮名書きにしてもよい」とあるのだ(同書「用字用語集 使用の原則」太字も原文のまま)

「バカ」や「わかる」がこの適応例であるのは、言うまでもないことだ。

 だから、なぜ、彼ひいてはG芸通信社が、そのように「ばか」や「分かる」に固執するのか? どうにも不可解だったが、いまふと気がついた。

 彼ならびに彼らは、『記者ハンドブック』を金科玉条のごとくあがめてはいても、必要に応じて開いてみるのは、「表記例」のページだけなのではないか。

で、そこには、「ばか(馬鹿 莫迦)→ばか」とあるから、「バカ」はダメなのだと思い込み、「わかる(解る、判る)→分かる」とあるから「わかる」はダメなのだと決めつけているのではないだろうか。どうも、そうとしか思えない。

 つまり彼らは、彼らの信奉する『記者ハンドブック』を、きちんと読んだことがないのである。いつも部分的にページを開いて、語句を参照しているだけなのだろう。

 一般の読者ならそれで少しもかまわない。だが、仮にも新聞社相手に仕事をしている通信社の編者者なのだ。プロなのだ。それではいけないだろう。

 そして結果、言い合いに負けると、「上半期が終わる6月下旬をもちまして、『健康歳時記』の配信を中止することとなりました」と、きた。それもこともあろうに、「未曾有の大震災」を口実にして…。

 それは見え透いたウソであった。なぜなら七月からは、別のライターによる同じコラムを配信しているからだ。その後がまのライターを探す時間かせぎに、「上半期が終わる6月下旬」という都合のいい区切りを持ち出してきたのに、こちらはそれにすっかりだまされて、言いなりになったわけだ。

低能のうえに卑劣なウソツキどもは、してやったりとほくそ笑んだことだろう。(この間のことは日を改めてお話しする)。

 むろん、地方紙への配信は、そちらの営業なのだから、止めたければ止めればいい。
 こちらもそんな相手と仕事をするバカさ加減にはうんざりした。
 きれいさっぱり縁が切れて、せいせいしたところで、積年の憤懣を遠慮会釈なしにぶちまける機会を得たことをよろこびたい。

 この怒りをエネルギーに変えて、おれ自身も自己改革し、もっとましな仕事をしたい。
 手始めにウェブサイトで「健康1日1話」というブログをはじめることにした。
 気が向いたら訪ねてみてください。

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あほんだら日本語格闘記(4) [プロテスト]

 2011年7月12日
「わからない」男

「バカ」「ハゲ」「肥満児」は差別・不快語だから使ってはいけない。

「わかる」「わかった」「わからない」の平仮名表記はダメである。必ず「分かる」「分かった」「分からない」と漢字で書かなければいけない。

 そう言い張ってきかない編集者。その主張の根拠は、新聞の用字・用語をきめた『記者ハンドブック』(共同通信発行)にそう記載されてあるからだ。地方新聞に記事を配信する一通信社としてそれを順守しなければならないと言うのだ。

 それがいかに単純で幼稚な杓子定規的たわ言でしかないか。前回までに具体例を挙げてハッキリ説明したが、「わかる」「分かる」について、付け加える。

『記者ハンドブック』を見ると、「わかる (解る、判る)→分かる」とあるから、「わかる」はいけないというのが、彼の主張なのだが、「記者ハンドブック」同様、「朝日新聞の用語の手引き」や「毎日新聞用語集」にも、「わかる(解る、判る)→分かる」とされている。

これは、「解る、判る」という漢字を用いてはいけないということで、平仮名書きを禁じているのではない。

 日々の新聞をちょっと意識して見てもらえば、それらのコトバが普通に使われていることに気づくはずだ。

 現に2011年4月13日の、朝日新聞、毎日新聞それぞれの朝刊を見ると、
 朝日 1面 使用済み燃料 搬出計画
 東京電力が福島第一原発で、冷却のための注水を続ける使用済み核燃料プールから燃料を取り出す計画の検討を始めたことが分かった。

 同 38面 出荷自粛の野菜販売
 福島第一原発事故による食品の放射能汚染問題で、千葉県から出荷自粛を指示されていた同県旭市産の葉物野菜のサンチュが今月上旬、東京都品川区内の大手スーパーで販売されていたことがわかった。

 毎日 1面 レベル7 先月認識
 代谷誠治委員は同日の会見で「3月23日の時点で、放出量がレベル7に該当する可能性が高いと分かっていた」と発言。
 同 5面 社説 安心できる場とケアを
 どのくらい危険なのか、避難すべきなのかどうか……。被災から1カ月が過ぎてもよくわからない福島第1原発の近隣住民たちの不安はいかばかりだろう。

 ─と、このように同じ新聞の同じ日の紙面に「分かる」「わかる」が共存している。これをどう考えるのか? と聞いたところ、

 ─「分かった」「わかった」の使い分けにつきましてのメールを拝読致しました。朝日新聞と毎日新聞に「わかった」「分かった」があることについて、他社のことなので明確には分かりません。あくまでも私見で、推測となりますが、何か意味付けて使い分けているのではないと思います。記者の癖もありますし、整理部の方もたくさんいますので、明確な統一がされていないのではと思います。もし朝日の用語手引きや毎日の用語集に「わかる(解る、判る)→分かる」と書いてあるならば(両用語集を持っていないので分かりませんが)、発行する新聞は「分かる」に統一するべきというのが私の考えです。

 ─という返信があった。こんな石頭相手にもはや、なにをか、いわんやではあるが、そもそも、「記者ハンドブック」も「用語集」も、「記者の癖」や「校閲・整理部」の各人による恣意的な用字・用語を排し、統一するために作られたものだろう。

 では、なぜ、実際の紙面では「分かった」に統一してないのか、統一しなければならないような用語ではないからだ。定められた用字・用語の範囲内で許容される一例が「わかる」なのである。

記事の内容や文脈によって、平仮名だとやわらかい感じになるので、そのほうがふさわしいと思ってそう書く人がいたら、デスクも校閲もそれを認めているのだろう。
 だが、そうした日本語の文章のニュアンスが、この男にはわからないようなのだ。こんなことがあった。

 大苦交響曲 という小文の冒頭部分に─、
 「第九」の季節が始まっている。40年も昔の話だが、指揮者の山本直純さんに、「暮れになると第九がはやるのはどうしてでしょう」と聞いたら、「日本の家は安普請が多いからじゃないですか」「えっ?」「正月を前にして、家の修繕をしておこうと、あっちでもこっちでも大工を呼ぶわけですよ。ガッハハハ…」と、あの豪快な笑いを笑った。当時はまだそんな冗談が通用した。いま、身辺を見回せば、みなそれ相応きれいな持ち家の住人ばかりだ(当家を除外すれば─)。

─と書いたところ、こんなメールが送られてきた。
 お世話になっております。
 さて、「大苦交響曲」の最初の方で、
「あの豪快な笑いを笑った。」とありますが、「豪快に笑った」あるいは「豪快な笑いを放った」でしょうか? それとも別のものでしょうか? お手数ですが、ご返答の程、よろしくお願い申し上げます。
 やれやれ、やってれないなあ。「豪快な笑いを放った」とは、なんじゃい! と呆れながら返信メールを打った。

○○さま。
>「豪快に笑った」あるいは「豪快な笑いを放った」でしょうか?
>それとも別のものでしょうか?
 どっちでもありません!
「あの豪快な笑いを笑った」です。「笑い」は名詞で、「笑った」は動詞ですから文法的にもおかしくないと思います。
 あなたには違和感があったのかと思いますが、けっして小生の独断的作文ではなく、そういう文例を読んだ記憶が何度もあります。

 いま、ネットの検索ページに「笑いを笑った」と打ち込んでみたら、次のような文例が出てきました。
 ①『寺田寅彦全集』第4巻所収のエッセイ「初冬の日記から」に、「純粋無垢の笑いを笑った」。
 ②『小酒井不木著作集』所収の小説「死体蝋燭」に、「悪魔の笑いを笑った」。
 ③石垣りん『詩集 表札など』所収の詩、「シジミ」に、「鬼ババの笑いを 私は笑った」。
 みんな古い時代のものではないかと思われるかもしれません。現代の若い人も、こんな文を書いています。

 ◆第14回三島由紀夫賞受賞作 青山真治「ユリイカ EUREKA」角川書店刊の冒頭部分。
「梢は父からよく聞いた。この土地は大昔の王様がおったんやぞ、と。王様のおったとこにおるんやから梢は今の王女様や、と。ほなお父さんは王様? お母さんは女王様? お兄ちゃんは王子様なん? そうくさ、うちはみんなえらいとじゃ。そう言って、父は乾いた笑いを笑った。」
 探せばまだいくつもあると思います。あなたも探してみてください。
 どうか、訂正しないでください。お願いします。

 ホントは、こんなコト、「この文、ヘンじゃない。これでいいの?」と思ったら、社内の人に聞き、資料に当たるとかするのが、編集者の仕事だろうと思います。立派なキャリアの持ち主と認めていますから、あえて苦言を呈します。
 このメールへの返信の全文はこうだった。

 お世話になっております。
 ご質問につきまして、早速、ご返答いただきありがとうございました。
 また、分かりやすい例文を添付くださり、重ねてお礼を申し上げます。
 ご指示いただいた通り、このまま出稿致します。お手数をおかけしました。

 まあ、自分の質問を「ご質問」と書く人なのだから、文章がわからないのは仕方ないけど、そこへもってきて、このご仁は(たぶんこの小通信社も)、ちょっと面倒なことはやりたがらない、手抜き大好き人間でもあった。

 もう一つ、小文を読んでいただこう。

 ひばりの歌

 家の近くの川岸の道を歩いていたら、傍らの草地からひばりが舞い上がるのが見えた。

 あいにく高度難聴の耳には、さえずりは聴こえなかったが、ひばりはじつに多くの鳴き声を持っている。

空へ上がっていくときは、チーチビ、チーチビと鳴き、空中にホバリングしているときは、チュリチュリチー、ツーイ、ピチピチ、地に下りてくるときはリュ、リュ、リュ…で、1羽ごとに15種類以上もの声のパターンを組み合わせた独自のバリエーションがあるそうだ。

そう聞くと、あの天性絶妙な美声の持ち主だった昭和の歌姫の芸名に改めて感心する。

 ひばりで思い出す句歌は、江戸の俳人、上島鬼貫の「草麦や雲雀(ひばり)があがるあれさがる」と、万葉の歌人、大伴家持の「うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲(こころかな)しも独りしおもへば」である。

 だが、この春に最もふさわしい「ひばりの歌」は、スピッツが歌う「ヒバリのこころ」(作詞・作曲=草野正宗)だっただろう。
「僕らこれから 強く生きていこう/行く手を阻む壁が いくつあっても」

 この小文に対して、こう言ってきた。
 一点だけご質問ですが、
「ひばりの歌」の最後の部分のスピッツの歌詞につきまして、JASRAC(音楽著作権協会)の著作権に引っかかってしまう可能性があります。
「行く手を阻む壁があっても強く生きていこう、という内容だ。」などに変更してもよろしいでしょうか?
 御多忙のところ申し訳ございませんが、ご確認の程、よろしくお願い申し上げます。
 
 バカヤロ。そういうことは、最低限やるべきことをちゃんとやってから言えよ! とつぶやきながら、
 〇〇さま。
 JASRACに原文を示して、「許諾」をとることはできませんか。それでも「カネを寄越せ」と言われたら、

 だが、この春に最もふさわしい「ひばりの歌」は、スピッツが歌う「ヒバリのこころ」だっただろう。「行く手を阻む壁があっても、強く生きていこう」という内容の歌詞のリフレーンに励まされる。─に変えてください。

 そう返信メールを送ったら、すぐさま返事がきた。

 お世話になっております。
メールを拝受致しました。早速ご確認いただきありがとうございます。
 歌詞につきましては、校閲の段階でJASDACに確認を取ったそうです。すると、「著作権料が発生するでしょう」との返答がありました。ですので、ご指示いただいたように直して配信致します。

 これはもう見え透いたウソである。「校閲の段階」といっても、社員数名の小さな会社で、校閲の専任者がいるわけではなく、お互いに原稿のチェックをし合っている隣の机の同僚のことなのだ。

「JASDACに確認を取」る気があるのなら、それは直接の担当者がやるべき仕事なのである。それをやりもしないで、「著作権に引っかかってしまう可能性があります」とズボラなことを言ってきて、「許諾をとることはできないか」と聞いたら、「校閲の段階でJASDACに確認を取ったそうです」とは、なんとずるい言い逃れか。

 ○○さま。
 あ、そうですか? それを先に言ってください。
>JASRAC(音楽著作権協会)の著作権に引っかかってしまう可能性があります。─と、
>校閲の段階でJASDACに確認を取ったそうです。すると、「著作権料が発生するでしょう」との返答がありました。─とは、ずいぶんニュアンスが違いますよね。
 当方はせいぜいこんなイヤミで応じるしかなかった。
   この話さらに続く。次回は7月17日。

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あほんだら日本語格闘記(3) [プロテスト]

 2011年7月7日
 低能vsバカの泥メール

「バカ」のカタカナ表記はダメ。「ばか」とひらがな書きにしなければいけない。

「ハゲ」は、不快用語だから使ってはいけない。

「肥満児」も、差別につながるので「肥満の子ども」としなければいけない。

 それから、「わかる」「わかった」もダメである。必ず「分かる」「分かった」としなければならない─と、拙稿「健康歳時記」を配信していたG芸通信社の担当編集者は言う。

 なぜ、そうでなければならないのか?

「弊社は通信社として『記者ハンドブック』に従って配信しており、各新聞社様にもその旨は伝えております」─であるからだ。

『記者ハンドブック』というのは、共同通信社発行の「新聞用字用語集」で、同様の手引を朝日や毎日などの新聞社も出している。

 それらを見ると、確かに「馬鹿→ばか」、「解る、判る→分かる」とある。

 だが、これは、「馬鹿」や「解る、判る」を使ってはいけないという指示であり、「バカ」や「わかる」を禁じているのではない。

だから各紙の紙面に「バカ」や「わかる」が普通にみられるわけで、文脈によって、適宜使い分けていいのではないか─というのが、当方の意見だったが、テキは、がんとして聞き入れない。

「新聞社の共通規格(記者ハンドブック)にあわせて原稿を作成しなければならない。各新聞社のデスクからもそのまま掲載できるような要請が来ており、また、長年、そのように仕事をしてきました。すべての筆者に記者ハンドブックに準拠することを伝えており、例外をつくる事はできません」と言い張るのである。どうしようもない石頭だった。

 健康関連の記事なので、「たんぱく質」という用語をよく使う。これが毎回、必ず「タンパク質」に直されている。『記者ハンドブック』に「たんぱくしつ(蛋白質)→タンパク質」とあるからだ。

 しかし、全国紙はもとより地方紙の紙面でもしばしば「たんぱく質」を見る。「タンパク質」はめったに見ない。それも道理で、蛋白質の「蛋白」は「卵の白身」のことだから、カタカナよりもひらがな書きのほうが、正しい用語なのだ。

 そう指摘しても、相手は、「記者ハンドブック」の指定は「タンパク質」だから─の一点張りで、その揺るぎない拒絶ぶりはいっそ見事でさえあった。
 しかし、こちらも一度言い出したからにはそう簡単には引き下がれない。その頑固ぶりは、どっちもどっちだとは思ったが、次のようなメールを送った。

 ○○さま。
 いや、どうも、なんともしつこくて恐縮ですが、ちょっとクライアント各社のご意向を伺ってみてはもらえませんか。
 たとえば、こんなふうに、です。

 ─日ごろはたいへんお世話になっております。
 とつぜんですが、一つ、小さな提案をさせていただきたく、メールを差し上げます。
 と申しますのは、弊社から御社への配信記事は、かねてより共同通信社刊『記者ハンドブック』に準拠するよう決められてあります。

 ところで、その中の収録語の一つ〈タンパク質〉については、最近は〈たんぱく質〉と平仮名表記にする例が多くみられます。貴紙紙面でも、〈たんぱく質〉とされてある例を拝見したことがあるように記憶いたします。
 そこで、ご提案ですが、弊社の配信記事につきましても、今後は『記者ハンドブック』にあるように「文部科学省制定の学術用語」の場合は〈タンパク質〉、食生活や栄養関連記事(「健康歳時記」など)の場合は〈たんぱく質〉と使い分けたらいかがかと考えまして、ご意向をお伺いする次第です。

 ご繁忙のお時間を煩わせますこと誠に申し訳ございませんが、ご検討いただけないでしょうか。何卒よろしくお願い申し上げます。

 ─とまぁ、こんな提案を「健康歳時記」配信の各社にしてもらうわけにはいきませんか。
 そうした提案をされたからといって、クライアントの怒りをかうといったことは、まずないだろうと思います。同じ新聞の別の記事ではすでに「たんぱく質」を使用しているのですから─。むしろ熱心さを認めてもらえるということもあるのではないでしょうか。

 しかし、それでもなお、なぜそんなしち面倒なことを、わざわざしなきゃいけないのか。「たんぱく質」でも「タンパク質」でも、どっちだっていいではないか。こんなちっぽけな問題になぜそこまでこだわる必要があるのだ。─というご意見もあろうかと思います。
 それならそれで、もう何にも言いません。

 ─と、こう振り返って書いてみると、自分でもいささか辟易するのだが、そんなあきらめのわるいメールを送った結果、以後は「たんぱく質」でよしとすることに一件落着。初めてめでたく〝一勝〟を収めたのだったが、イラつくことは、ほかにもずいぶんあった。

 たとえば─、
「旧冬のある日、電話の受話器をとった妻が、悲痛な声を発し、目からたちまち涙があふれ出た。親友の死去の知らせだった。六十四歳、くも膜下出血─。

 八年前、私の前立腺がんがわかったとき、身内同様に心配してもらい、たびたび高価な民間薬が届いた。お見舞いを頂いたほうはまだのんきに生きている。申し訳ないような不公平だ。」

 ─という小文の末尾の「申し訳ないような不公平だ」が、新聞の紙面では「申し訳ないようで不公平に思えた」に直されてある。例によって、メールを送った。
 
 ○○さま。
 1月16日の「壮年の脳卒中」の文中、小生が「申し訳ないような不公平だ」と書いたのが、「申し訳ないようで不公平に思えた」となっています。これ、おれの文章じゃないデス。こういう直しは不愉快です。もしスペースの関係で字数を増やす必要があったのなら、せめて「申し訳ないような不公平に思われた」としてほしかったです。

 その返信はこうだった。
「壮年の脳卒中」については本当に申し訳ございません。以後気を付けますので、よろしく御願い申し上げます。

 なんだ、こりゃ、だったら、直すなよ。バカめ! という罵言はむろん胸の中で吐き捨てただけだったが。

 また、脳卒中の前兆として起こる頭痛の症状を述べたあとの、「そんなときはためらわず脳外科を受診しよう」が、「そんなときはためらわず脳外科で受診しよう」となっている。

なぜ、「を」を「で」に直したのか? 「脳外科で診てもらおう」や「脳外科で診察を受けよう」ならいいけど、「脳外科で受診しよう」はおかしいと思います。─とメールを送った。

 それへの返信メール。
 ご質問の件ですが、
 私は「脳外科」を診察する「場所」と考えました。「~を」としたら「脳外科」は脳を診察する「機関」と考えられます。「脳外科」のとらえ方の違いが出てしまいました。医学に関して認識不足なところが出てしまったのかもしれません。また、疑問点があったらおっしゃってください。自分なりの考えを伝えます。

 シャラくさいことを言うではないかと、駄文ライターは怒った。

 ○○さま。
 病院の「脳外科」は、脳を診察し、治療する「場所」です。診察し、治療する「機関」でもあります。だがそんなことどっちだっていいでしょう。
「そんなときはためらわず脳外科を受診しよう」というのは、すぐさま脳外科へ行くようにという勧めなのです。

 別の例を挙げましょう。大学の「英文科を受験しよう」「英文科を受けよう」とは言います。が、「英文科で受験しよう」「英文科で受けよう」とは言わないと思います。

「受診」は「診察を受けること」、「受験」は「試験を受けること」です。
「英文科で勉強しよう」とは言います。「脳外科で治療しよう」とも言うでしょう。だけど、おれは「脳外科で受診しよう」とは、絶対に言わないし、書きません。

「で」でも「を」でも、どっちでもいいだろう。というゴ意見もあるかと思います。一歩ゆずって、それを認めることにしましょう。その場合でも、やはり、直されることを、おれはおことわりします。なぜなら、これは、おれの文章だからです。

 ここで、目的語だとか、自動詞だとか、他動詞だとか、格助詞だとか、半チクな文法論議をする気はありません。あなたにも、おれにも、身についた語感というものがあって、それはお互い、尊重しなければならないと思うからです。

 明らかな誤字、脱字、間違った記述について、編集者が、ライターの文章を直すのは、それは編集者の権利であり義務でもある仕事だと思います。しかし、その場合も、相手にきちんとことわってやるのが、ルールというものでしょう。とにかく、ロクな文章じゃないけど、低能は低能なりに、考えながら書いているわけで、そこのとこ、わかってもらいたいと思うのは、ゼイタクな希望だろうか。

 この怒りのメールに対する返信メール(全文)はこうだった。
 お世話になっております。
>明らかな誤字、脱字、間違った記述について、編集者が、ライターの文章を直すのは、それは編集者の権利であり義務でもある仕事だと思います。しかし、その場合も、相手にきちんとことわってやるのが、ルールというものでしょう。
 確かにその通りです。筆者の気持ちに細心の注意を払って編集を行うのが編集者です。以後、その点も注意しながら編集を行いますので、ご指導のほど、よろしく御願いします。

 しかし、「細心の注意」を払っていたら、どうしてこんなコトになるのかという一例をお目にかける。

 血圧の「至適値と目標値」について説明した記事で、原文は下の通りだった。

 なお、上の血圧から下の血圧を引いた数値を「脈圧」、脈圧を三で割り、下の数値を足したものを「平均血圧」という。脈圧は心臓に近い太い血管の、平均血圧は末梢の細い血管の、硬化度の指標とされる。脈圧の正常範囲は四○~六○。平均血圧の理想は九○未満だ。

 ─これが、新聞紙面では、

 なお、上の血圧から下の血圧を引いた数値を「脈圧」、脈圧を三で割り、下の数値を足したものを「平均血圧」という。脈圧は心臓に近い太い血管の平均血圧は、末梢の細い血管の硬化度の指標とされる。脈圧の正常範囲は四○─六○。平均血圧の理想は九○未満だ。
と意味不明の珍文に化けていた。

 低能が読み違えた文を、わかりやすく解体すると、「脈圧は心臓に近い太い血管の硬化度の指標で、平均血圧は末梢の細い血管の硬化度の指標とされる」ということになる。

 それが、「、」1個の移動で、「脈圧は心臓に近い太い血管の平均血圧は、末梢の細い血管の硬化度の指標とされる」という意味不明の珍文に化けてしまったのである。
 呆れて物が言えないとはこのことだが、黙って見過ごすのは相手のタメにもならないだろうと思ったから、間違いを指摘した上で、

 ○○さま。
 たかが「、」一個のことをグダグダ言いたくないので、言わせないようにしてください。
どうか、今後はこういう直しはしないでください。よろしくお願い申し上げます。
 ─とメールを送った。それの返信。

 お世話になっております。
 メール拝受致しました。
 読点の件、すみませんでした。軽率に変えてしまったようです。以後気を付けますので、よろしく御願い申し上げます。

 ─これが全文だった。「軽率に変える」なよ。「細心の注意」はどこへ行ったんだよ。
 この話、まだまだ言い足りない。次回は7月12日に。

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あほんだら日本語格闘記(2) [プロテスト]

 2011年7月2日
 バカばかハゲ論争

 26年余もつづけてきたコラムの連載を、経費面で成り立たない(「配信するごとに赤字になる」)という理由で、打ち切りを通告された。
 では、赤字にならないような原稿料での継続を…と、いささか卑屈な申し入れをした。それに対する返答は、

「今まででも安価で原稿を書いていただいているのに、その半額近くで書いていただくのは申し訳ないし、逆にその値段では失礼になる、継続してもその値段では、テンションの維持は難しいなどの意見が出ました。ご提案いただいたのにもかかわらず、お力添えできなくて申し訳ないのですが、やはり6月で終了することとなりました。」というものだった。

「今までも安価」とは、この期に及んでよく言ってくれるではないか。以前に一度、原稿料を上げてくれと要請したとき、「あなたの原稿料はけっして安いほうではありません」と突っぱねたことを忘れたのか。なんと便利な口であることか。

「その値段ではテンションが下がる」というのは、原稿を書くことを知らない人間の台詞としか思えない。

 原稿を書くときに念頭にあるのは、無能ながら(むしろそれゆえ)少しでも完成度の高い作品にしたいという思いだけで、原稿料の額が「テンションの維持」(ひいては原稿の質)にかかわるというようなことは、決してない。それが原稿を書くということの本質だと思う。

 日常、原稿を書き、読むことを仕事としている編集者でありながら、そんなこともわからないのだろうか。
 しかし、赤字にならない程度に原稿料を切り下げても中止したいというのだから、中止の理由は経費面のことだけではない、それ以外に大きな理由があることが推察される。それは、なんなのか?

 思い当たる理由は、ただ一つ。当方と編集者(つまりはG通信社)との間でしばしば繰り返されてきた、原稿の文章(用字・用語)についての意見の相違である。
 どのような用字・用語について、意見が違ったのか、いくつか具体例をあげると、「バカ」「ハゲ」「肥満児」などがいけない、というのが、それである。

 原稿に書いた「バカな話」が、送られてきた掲載紙では「ばかな話」になっている。どうして? と聞いたら、「バカ」は「侮蔑的な表現なので…」という返事だった。

 カタカナだと「侮蔑的」で、ひらがなならよしとされるのも、わかりにくい理屈だが、偶然にもその前の日のある新聞の紙面には、まさにその「バカ」が、見出しに使われていたのである。

 作家の吉岡忍氏の、「人々が個々ばらばらに暮らすようになった現実」を指摘した論説のなかに、
 ─取引先や同僚のものわかりが悪い、とけなすビジネスマンの言葉、友だちや先輩後輩の失敗をあげつらう高校生たちのやりとり、ファミレスの窓際のテーブルに陣取って、幼稚園や学校をあしざまに言いつのる母親同士の会話、相手の言い分をこき下ろすだけのテレビの論客や政治家たち……。
 ここには共通する、きわだった特徴がある。はしたない言い方をすれば、どれもこれもが、「自分以外はみんなバカ」と言っている─という一節があり、その記事につけられた、ゴシック文字の三段見出しが、
「自分以外はバカ」の時代 ─だった。(朝日新聞2003年7月9日夕刊)

「そんなことを言うんだったら、昨日の朝日の文化面を見てよ。あれはどうなの?」と言ったら、
「全国紙と地方紙は違います。うちは地方紙に記事を提供する通信社ですから、『記者ハンドブック』に準拠します」と言い張る。

『記者ハンドブック』というのは、共同通信社発行の「新聞用字用語集」だ。それを見ると、
 ばか (馬鹿、莫迦)→ばか 火事場のばか力、ばかげた、ばか正直、ばかにする、ばかばかしい、ばか話、ばからしい、ばか笑い[注]「ばかでもチョンでも」「ばかチョンカメラ」「ばかの一つ覚え」などの表現は使わない。 ─とある。

 なるほど、「バカ」という表記はどこにもない。だからダメなんだと言うのだろう。なんだかまるで規則一点張りの小役人みたいではないか。

 では、ハゲ」はどうか?
『記者ハンドブック』には、
 はげる (禿げる)→はげる とあるが、ハゲはよくないとは、どこにも書いてない。その小文は、自分自身の頭髪の過疎状況について記したものだったから、
「ハゲ本人が、自分で〝ハゲ〟と言うのがなぜいけない」とジョークまじりで言ってやったら、
「『ハゲ』は不快用語です。いかに自分のことでも記事を読んだら『ハゲ』という言葉を不快に思う読者がいるので、配信できないと判断しました」というのである。

 これには思わず笑ってしまった。ハゲが、不快用語だなんて、ハゲに失礼ではないか。
 だったら、次のような文例はどう受け取ったらいいのだ。
 これも朝日新聞2004年3月8日夕刊の「生活面」の記事で、のっけからこんなふうに始まっている。

「最近ハゲが気にならない?」。同僚の女性記者(30)が聞いてきた。─略─「かっこいいハゲ。多いよね」。確かに。サッカーW杯で来日したハゲの外国人選手はみな強くて格好よかった。俳優ではブルース・ウィルス、ショーン・コネリー、エド・ハリス。日本にも竹中直人、西村雅彦がいる。きっと「ラブハゲ」は街中にいるはずだ。
 ─中略─
 女性はどう見ているのか。
 人気漫画「ハゲまして!桜井くん」(講談社)の作者、高倉あつこさん(41)は「男の魅力は髪のあるなしではなく、自信のあるなし。髪の量は関係ない」。フリーライターのUMIKOさん(36)もサイトで熱く応援する。「ハゲがかっこよくなれば、日本はもっと元気になる!」
 ─で、この記事の見出しは、
「髪がある? だから何なんだ ラブ ハゲ」というのである。

「ハゲ」は「不快用語」だから、使ってはいけないというのだったら、このような記事は成立しないではないか。

 石橋を叩いて渡らない自主規制もここまでくると、コッケイというほかない。

 そして、肥満児がなぜいけないか。それについてのメールのやりとりは、こうである。

 ─さて、先日いただいた、原稿につきまして、「小児メタボ」「やせの問題」のなかに「肥満児」「低体重児」という言葉が出て来ます。

 しかし、「記者ハンドブック」によりますと新聞では「○○児」という言葉は、差別につながるのでなるべく使わないで下さいと記してあります。ですので、新聞社に出す前に「肥満の子ども」「低体重の子ども」に直させて頂きますがよろしいでしょうか?
 なお、「肥満傾向児」という言葉は文部科学省の言葉なのでそのまま引用させて頂きます。

 ─と、お決まりの「記者ハンドブック」が出てきたので、それを開いてみたら、こうある。
 私生子、私生児→非嫡出子
{注}歴史的な記述でも「私生児」は使用しない。「非嫡出子」も法律上のケース以外は「○○さんの子」などとする。
 混血児、合いの子→使用を避ける。なるべく「父が日本人で母がドイツ人という国際児童」などと具体的に書くよう心掛ける。
{注}「鍵っ子」「もらいっ子」「精薄児」など「○〇っ子」「○○児」は子どもにレッテルを貼ることになりがちなので安易に使わない。「ちびっ子」もなるべく使わない。

 なるほど。これを読めば、一も二もなく、「肥満児」「低体重児」はいけないということになるのだろう。
 だが、それを「肥満の子ども」や「低体重の子ども」に変えると、なぜ「レッテルを貼る」ことや「差別につながる」ことにはならないのか? よけい差別やレッテルの感じが強調されるのではないか? 肥満児や低体重児が差別語だったら、「肥満の子ども」「低体重の子ども」は差別表現ではないか。納得できなかったので、次のような返信メールを送った。

 ○○さま。
 肥満児、低体重児は、記者ハンドブックのいう「○○児」のカテゴリーからは外れた用語だと思います。
 手元の朝日新聞4月2日朝刊の一面トップ記事、「子供にメタボ基準」の前文には「……小中学生でも肥満児なら5~20%はあてはまる可能性があるという」とあり、本文には、「肥満児(身長と体重から換算する肥満度が20%以上の子ども)と、肥満児も含めた一般の子どもを数百人ずつ調べたところ、病院や地域などにより肥満児の5~20%、一般の子の0.5~3%が同症候群と診断された。」と、終始「肥満児」で通しています。
 なお、低体重児は、医学的慣用語です。以上、お返事まで。原稿は元に戻してください。
 ─というようなやりとりが、何度も何度も繰り返された結果、とうとう耐えられなくなったのだろう。

「大変心苦しいのですが、上半期が終わる6月下旬をもちまして、『健康歳時記』の配信を中止することとなりました。」と言ってきた。
 なにが「心苦しい」ものか。うるさいライターと縁が切れて、サバサバしているだろう。だが、こっちはそうはいかないよ。
 この話、つづけます。次回は7月7日。


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あほんだら日本語格闘記(1) [プロテスト]

 2011年7月1日
 貧乏ライター、胸中煩悶す

 村はずれの道……のようだ。草地の中を通る小さな一本道だ。家の一軒も、人影も見えない。ほの暗い寂しい道を一人、小走りに歩き続けている。泣きたくなるほど心細く、お父さん! お父さん! と叫び、目が覚めた。

 胸が苦しい。胸全体が、熱を帯びた圧迫感に侵されている。痛くはない.息苦しくもない。奇妙な違和感が胸のなかから左右の二の腕へ、じわっと広がっている。
 言いようもない不安感、焦燥感に胸が締めつけられる。とても寝てなぞいられない。上体を起こして、両手で胸を撫で回した。そうすると、苦しい感じがすこし薄れていくようなのだ。大きく息を吐いて体を横たえた。眠りに落ち、また夢をみた。

 親しい友人、U・Kの家に招かれ、食卓に向かっている。自分の前にだけ(焼酎の水割りだろうか)透明な酒が置かれてある。Uに「君は?」と聞くと、「おれ、飲んじゃいけないんだ」「あ、おれもそうなんた。乾杯だけしよう」
 コップの中の酒を半分、彼のコップに移して、たがいのコップを触れ合わせ、「乾杯」と言って、目が覚めた。
 すると、またもや胸のなかに奇妙な熱を帯びた圧迫感が広がっている。苦しい…、苦しい…。胸をさすり続ける。

 ……そんな朝がもう一月以上も続いている。始まったのは、4月の末、長い連休が始まる前日だった。

 その日、26年間もやってきた仕事の中止を告げる手紙が届いた。
「拝啓 桜の花も散り緑深まる季節となりました。」との悠長な時候の挨拶に続いて、
「さて、未曾有の大震災の影響で、東北地方や北関東地方の新聞社は、広告収入の減少、紙やインクの不足などで大きな痛手となっています。弊社の状況も震災地周辺の新聞社への配信が多く、これらの新聞社への配信が四月以降、大幅に止まってしまい、大きなダメージとなっています。『健康歳時記』についてもF民報、J新聞、S新報の三紙の新聞社が配信の中止を連絡してきました。一気に三紙の配信中止となりますと、配信するごとに赤字となってしまいます。この状況をどうするか、先週末、社内で検討しました。大変心苦しいのですが、上半期が終わる6月下旬をもちまして、『健康歳時記』の配信を中止することとなりました。」とある。

『健康歳時記』というのは、このG通信社が地方新聞十数紙に配信している健康関連の記事のコラムである。1日分450字の小さな欄だが、割合多くの固定読者がついていて、26年余も連載が続いている。執筆者の私にとっては、生活の一部ともなっている愛着のある仕事だった。
 それがいきなり中止とは、なんとも理不尽な仕打ちではないか。

 だが、「配信するごとに赤字となる」というのは、零細企業にひとしい小通信社にとっては死活にかかわる問題なのかもしれない。

 赤字になるいちばんの理由は、原稿料だろうか? と思い、「もし、従来と同額の原稿料では引き合わないということであるのなら、どれくらいの減額なら引き合うのか。教えてください」とメールで問い合わせた。
 返事は、「他のコラムの配信状況や人件費などの諸事情もあるので明確には言えませんが、現在の状況では1本当たりだいたい45%~50%減(3000円くらい)となってしまいます」というものだった。
「では、その条件で継続という案はいかがでしょう。ご検討いただけませんか」と申し入れた。
 なにしろ無名の貧乏ライターのことだから、ゼロになるよりは、半分でもカネが入ってくるほうが助かるわけだ。
 それに対して、戻ってきたのは、次のようなメールだった。
「ご提案いただいた〈半額で継続する〉件ですが、本日の会議で提案しました。会議では、今まででも安価で原稿を書いていただいているのに、その半額近くで書いていただくのは申し訳ないし、逆にその値段では失礼になる、継続してもその値段では、テンションの維持は難しいなどの意見が出ました。ご提案いただいたのにもかかわらず、お力添えできなくて申し訳ないのですが、やはり6月で終了することとなりました。」

 ああ、これは、三紙の配信中止だけが理由の全部ではないな、と感じた。おそらく、それは、無用のあつれきを避けるための婉曲な口実に過ぎないだろう、と思った。
 そして、そこからわが胸中のたえがたい煩悶が始まったのだった。
         (つづきは、明日─)

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