あほんだら日本語格闘記(4) [プロテスト]
2011年7月12日
「わからない」男
「バカ」「ハゲ」「肥満児」は差別・不快語だから使ってはいけない。
「わかる」「わかった」「わからない」の平仮名表記はダメである。必ず「分かる」「分かった」「分からない」と漢字で書かなければいけない。
そう言い張ってきかない編集者。その主張の根拠は、新聞の用字・用語をきめた『記者ハンドブック』(共同通信発行)にそう記載されてあるからだ。地方新聞に記事を配信する一通信社としてそれを順守しなければならないと言うのだ。
それがいかに単純で幼稚な杓子定規的たわ言でしかないか。前回までに具体例を挙げてハッキリ説明したが、「わかる」「分かる」について、付け加える。
『記者ハンドブック』を見ると、「わかる (解る、判る)→分かる」とあるから、「わかる」はいけないというのが、彼の主張なのだが、「記者ハンドブック」同様、「朝日新聞の用語の手引き」や「毎日新聞用語集」にも、「わかる(解る、判る)→分かる」とされている。
これは、「解る、判る」という漢字を用いてはいけないということで、平仮名書きを禁じているのではない。
日々の新聞をちょっと意識して見てもらえば、それらのコトバが普通に使われていることに気づくはずだ。
現に2011年4月13日の、朝日新聞、毎日新聞それぞれの朝刊を見ると、
朝日 1面 使用済み燃料 搬出計画
東京電力が福島第一原発で、冷却のための注水を続ける使用済み核燃料プールから燃料を取り出す計画の検討を始めたことが分かった。
同 38面 出荷自粛の野菜販売
福島第一原発事故による食品の放射能汚染問題で、千葉県から出荷自粛を指示されていた同県旭市産の葉物野菜のサンチュが今月上旬、東京都品川区内の大手スーパーで販売されていたことがわかった。
毎日 1面 レベル7 先月認識
代谷誠治委員は同日の会見で「3月23日の時点で、放出量がレベル7に該当する可能性が高いと分かっていた」と発言。
同 5面 社説 安心できる場とケアを
どのくらい危険なのか、避難すべきなのかどうか……。被災から1カ月が過ぎてもよくわからない福島第1原発の近隣住民たちの不安はいかばかりだろう。
─と、このように同じ新聞の同じ日の紙面に「分かる」「わかる」が共存している。これをどう考えるのか? と聞いたところ、
─「分かった」「わかった」の使い分けにつきましてのメールを拝読致しました。朝日新聞と毎日新聞に「わかった」「分かった」があることについて、他社のことなので明確には分かりません。あくまでも私見で、推測となりますが、何か意味付けて使い分けているのではないと思います。記者の癖もありますし、整理部の方もたくさんいますので、明確な統一がされていないのではと思います。もし朝日の用語手引きや毎日の用語集に「わかる(解る、判る)→分かる」と書いてあるならば(両用語集を持っていないので分かりませんが)、発行する新聞は「分かる」に統一するべきというのが私の考えです。
─という返信があった。こんな石頭相手にもはや、なにをか、いわんやではあるが、そもそも、「記者ハンドブック」も「用語集」も、「記者の癖」や「校閲・整理部」の各人による恣意的な用字・用語を排し、統一するために作られたものだろう。
では、なぜ、実際の紙面では「分かった」に統一してないのか、統一しなければならないような用語ではないからだ。定められた用字・用語の範囲内で許容される一例が「わかる」なのである。
記事の内容や文脈によって、平仮名だとやわらかい感じになるので、そのほうがふさわしいと思ってそう書く人がいたら、デスクも校閲もそれを認めているのだろう。
だが、そうした日本語の文章のニュアンスが、この男にはわからないようなのだ。こんなことがあった。
大苦交響曲 という小文の冒頭部分に─、
「第九」の季節が始まっている。40年も昔の話だが、指揮者の山本直純さんに、「暮れになると第九がはやるのはどうしてでしょう」と聞いたら、「日本の家は安普請が多いからじゃないですか」「えっ?」「正月を前にして、家の修繕をしておこうと、あっちでもこっちでも大工を呼ぶわけですよ。ガッハハハ…」と、あの豪快な笑いを笑った。当時はまだそんな冗談が通用した。いま、身辺を見回せば、みなそれ相応きれいな持ち家の住人ばかりだ(当家を除外すれば─)。
─と書いたところ、こんなメールが送られてきた。
お世話になっております。
さて、「大苦交響曲」の最初の方で、
「あの豪快な笑いを笑った。」とありますが、「豪快に笑った」あるいは「豪快な笑いを放った」でしょうか? それとも別のものでしょうか? お手数ですが、ご返答の程、よろしくお願い申し上げます。
やれやれ、やってれないなあ。「豪快な笑いを放った」とは、なんじゃい! と呆れながら返信メールを打った。
○○さま。
>「豪快に笑った」あるいは「豪快な笑いを放った」でしょうか?
>それとも別のものでしょうか?
どっちでもありません!
「あの豪快な笑いを笑った」です。「笑い」は名詞で、「笑った」は動詞ですから文法的にもおかしくないと思います。
あなたには違和感があったのかと思いますが、けっして小生の独断的作文ではなく、そういう文例を読んだ記憶が何度もあります。
いま、ネットの検索ページに「笑いを笑った」と打ち込んでみたら、次のような文例が出てきました。
①『寺田寅彦全集』第4巻所収のエッセイ「初冬の日記から」に、「純粋無垢の笑いを笑った」。
②『小酒井不木著作集』所収の小説「死体蝋燭」に、「悪魔の笑いを笑った」。
③石垣りん『詩集 表札など』所収の詩、「シジミ」に、「鬼ババの笑いを 私は笑った」。
みんな古い時代のものではないかと思われるかもしれません。現代の若い人も、こんな文を書いています。
◆第14回三島由紀夫賞受賞作 青山真治「ユリイカ EUREKA」角川書店刊の冒頭部分。
「梢は父からよく聞いた。この土地は大昔の王様がおったんやぞ、と。王様のおったとこにおるんやから梢は今の王女様や、と。ほなお父さんは王様? お母さんは女王様? お兄ちゃんは王子様なん? そうくさ、うちはみんなえらいとじゃ。そう言って、父は乾いた笑いを笑った。」
探せばまだいくつもあると思います。あなたも探してみてください。
どうか、訂正しないでください。お願いします。
ホントは、こんなコト、「この文、ヘンじゃない。これでいいの?」と思ったら、社内の人に聞き、資料に当たるとかするのが、編集者の仕事だろうと思います。立派なキャリアの持ち主と認めていますから、あえて苦言を呈します。
このメールへの返信の全文はこうだった。
お世話になっております。
ご質問につきまして、早速、ご返答いただきありがとうございました。
また、分かりやすい例文を添付くださり、重ねてお礼を申し上げます。
ご指示いただいた通り、このまま出稿致します。お手数をおかけしました。
まあ、自分の質問を「ご質問」と書く人なのだから、文章がわからないのは仕方ないけど、そこへもってきて、このご仁は(たぶんこの小通信社も)、ちょっと面倒なことはやりたがらない、手抜き大好き人間でもあった。
もう一つ、小文を読んでいただこう。
ひばりの歌
家の近くの川岸の道を歩いていたら、傍らの草地からひばりが舞い上がるのが見えた。
あいにく高度難聴の耳には、さえずりは聴こえなかったが、ひばりはじつに多くの鳴き声を持っている。
空へ上がっていくときは、チーチビ、チーチビと鳴き、空中にホバリングしているときは、チュリチュリチー、ツーイ、ピチピチ、地に下りてくるときはリュ、リュ、リュ…で、1羽ごとに15種類以上もの声のパターンを組み合わせた独自のバリエーションがあるそうだ。
そう聞くと、あの天性絶妙な美声の持ち主だった昭和の歌姫の芸名に改めて感心する。
ひばりで思い出す句歌は、江戸の俳人、上島鬼貫の「草麦や雲雀(ひばり)があがるあれさがる」と、万葉の歌人、大伴家持の「うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲(こころかな)しも独りしおもへば」である。
だが、この春に最もふさわしい「ひばりの歌」は、スピッツが歌う「ヒバリのこころ」(作詞・作曲=草野正宗)だっただろう。
「僕らこれから 強く生きていこう/行く手を阻む壁が いくつあっても」
この小文に対して、こう言ってきた。
一点だけご質問ですが、
「ひばりの歌」の最後の部分のスピッツの歌詞につきまして、JASRAC(音楽著作権協会)の著作権に引っかかってしまう可能性があります。
「行く手を阻む壁があっても強く生きていこう、という内容だ。」などに変更してもよろしいでしょうか?
御多忙のところ申し訳ございませんが、ご確認の程、よろしくお願い申し上げます。
バカヤロ。そういうことは、最低限やるべきことをちゃんとやってから言えよ! とつぶやきながら、
〇〇さま。
JASRACに原文を示して、「許諾」をとることはできませんか。それでも「カネを寄越せ」と言われたら、
だが、この春に最もふさわしい「ひばりの歌」は、スピッツが歌う「ヒバリのこころ」だっただろう。「行く手を阻む壁があっても、強く生きていこう」という内容の歌詞のリフレーンに励まされる。─に変えてください。
そう返信メールを送ったら、すぐさま返事がきた。
お世話になっております。
メールを拝受致しました。早速ご確認いただきありがとうございます。
歌詞につきましては、校閲の段階でJASDACに確認を取ったそうです。すると、「著作権料が発生するでしょう」との返答がありました。ですので、ご指示いただいたように直して配信致します。
これはもう見え透いたウソである。「校閲の段階」といっても、社員数名の小さな会社で、校閲の専任者がいるわけではなく、お互いに原稿のチェックをし合っている隣の机の同僚のことなのだ。
「JASDACに確認を取」る気があるのなら、それは直接の担当者がやるべき仕事なのである。それをやりもしないで、「著作権に引っかかってしまう可能性があります」とズボラなことを言ってきて、「許諾をとることはできないか」と聞いたら、「校閲の段階でJASDACに確認を取ったそうです」とは、なんとずるい言い逃れか。
○○さま。
あ、そうですか? それを先に言ってください。
>JASRAC(音楽著作権協会)の著作権に引っかかってしまう可能性があります。─と、
>校閲の段階でJASDACに確認を取ったそうです。すると、「著作権料が発生するでしょう」との返答がありました。─とは、ずいぶんニュアンスが違いますよね。
当方はせいぜいこんなイヤミで応じるしかなかった。
この話さらに続く。次回は7月17日。
「わからない」男
「バカ」「ハゲ」「肥満児」は差別・不快語だから使ってはいけない。
「わかる」「わかった」「わからない」の平仮名表記はダメである。必ず「分かる」「分かった」「分からない」と漢字で書かなければいけない。
そう言い張ってきかない編集者。その主張の根拠は、新聞の用字・用語をきめた『記者ハンドブック』(共同通信発行)にそう記載されてあるからだ。地方新聞に記事を配信する一通信社としてそれを順守しなければならないと言うのだ。
それがいかに単純で幼稚な杓子定規的たわ言でしかないか。前回までに具体例を挙げてハッキリ説明したが、「わかる」「分かる」について、付け加える。
『記者ハンドブック』を見ると、「わかる (解る、判る)→分かる」とあるから、「わかる」はいけないというのが、彼の主張なのだが、「記者ハンドブック」同様、「朝日新聞の用語の手引き」や「毎日新聞用語集」にも、「わかる(解る、判る)→分かる」とされている。
これは、「解る、判る」という漢字を用いてはいけないということで、平仮名書きを禁じているのではない。
日々の新聞をちょっと意識して見てもらえば、それらのコトバが普通に使われていることに気づくはずだ。
現に2011年4月13日の、朝日新聞、毎日新聞それぞれの朝刊を見ると、
朝日 1面 使用済み燃料 搬出計画
東京電力が福島第一原発で、冷却のための注水を続ける使用済み核燃料プールから燃料を取り出す計画の検討を始めたことが分かった。
同 38面 出荷自粛の野菜販売
福島第一原発事故による食品の放射能汚染問題で、千葉県から出荷自粛を指示されていた同県旭市産の葉物野菜のサンチュが今月上旬、東京都品川区内の大手スーパーで販売されていたことがわかった。
毎日 1面 レベル7 先月認識
代谷誠治委員は同日の会見で「3月23日の時点で、放出量がレベル7に該当する可能性が高いと分かっていた」と発言。
同 5面 社説 安心できる場とケアを
どのくらい危険なのか、避難すべきなのかどうか……。被災から1カ月が過ぎてもよくわからない福島第1原発の近隣住民たちの不安はいかばかりだろう。
─と、このように同じ新聞の同じ日の紙面に「分かる」「わかる」が共存している。これをどう考えるのか? と聞いたところ、
─「分かった」「わかった」の使い分けにつきましてのメールを拝読致しました。朝日新聞と毎日新聞に「わかった」「分かった」があることについて、他社のことなので明確には分かりません。あくまでも私見で、推測となりますが、何か意味付けて使い分けているのではないと思います。記者の癖もありますし、整理部の方もたくさんいますので、明確な統一がされていないのではと思います。もし朝日の用語手引きや毎日の用語集に「わかる(解る、判る)→分かる」と書いてあるならば(両用語集を持っていないので分かりませんが)、発行する新聞は「分かる」に統一するべきというのが私の考えです。
─という返信があった。こんな石頭相手にもはや、なにをか、いわんやではあるが、そもそも、「記者ハンドブック」も「用語集」も、「記者の癖」や「校閲・整理部」の各人による恣意的な用字・用語を排し、統一するために作られたものだろう。
では、なぜ、実際の紙面では「分かった」に統一してないのか、統一しなければならないような用語ではないからだ。定められた用字・用語の範囲内で許容される一例が「わかる」なのである。
記事の内容や文脈によって、平仮名だとやわらかい感じになるので、そのほうがふさわしいと思ってそう書く人がいたら、デスクも校閲もそれを認めているのだろう。
だが、そうした日本語の文章のニュアンスが、この男にはわからないようなのだ。こんなことがあった。
大苦交響曲 という小文の冒頭部分に─、
「第九」の季節が始まっている。40年も昔の話だが、指揮者の山本直純さんに、「暮れになると第九がはやるのはどうしてでしょう」と聞いたら、「日本の家は安普請が多いからじゃないですか」「えっ?」「正月を前にして、家の修繕をしておこうと、あっちでもこっちでも大工を呼ぶわけですよ。ガッハハハ…」と、あの豪快な笑いを笑った。当時はまだそんな冗談が通用した。いま、身辺を見回せば、みなそれ相応きれいな持ち家の住人ばかりだ(当家を除外すれば─)。
─と書いたところ、こんなメールが送られてきた。
お世話になっております。
さて、「大苦交響曲」の最初の方で、
「あの豪快な笑いを笑った。」とありますが、「豪快に笑った」あるいは「豪快な笑いを放った」でしょうか? それとも別のものでしょうか? お手数ですが、ご返答の程、よろしくお願い申し上げます。
やれやれ、やってれないなあ。「豪快な笑いを放った」とは、なんじゃい! と呆れながら返信メールを打った。
○○さま。
>「豪快に笑った」あるいは「豪快な笑いを放った」でしょうか?
>それとも別のものでしょうか?
どっちでもありません!
「あの豪快な笑いを笑った」です。「笑い」は名詞で、「笑った」は動詞ですから文法的にもおかしくないと思います。
あなたには違和感があったのかと思いますが、けっして小生の独断的作文ではなく、そういう文例を読んだ記憶が何度もあります。
いま、ネットの検索ページに「笑いを笑った」と打ち込んでみたら、次のような文例が出てきました。
①『寺田寅彦全集』第4巻所収のエッセイ「初冬の日記から」に、「純粋無垢の笑いを笑った」。
②『小酒井不木著作集』所収の小説「死体蝋燭」に、「悪魔の笑いを笑った」。
③石垣りん『詩集 表札など』所収の詩、「シジミ」に、「鬼ババの笑いを 私は笑った」。
みんな古い時代のものではないかと思われるかもしれません。現代の若い人も、こんな文を書いています。
◆第14回三島由紀夫賞受賞作 青山真治「ユリイカ EUREKA」角川書店刊の冒頭部分。
「梢は父からよく聞いた。この土地は大昔の王様がおったんやぞ、と。王様のおったとこにおるんやから梢は今の王女様や、と。ほなお父さんは王様? お母さんは女王様? お兄ちゃんは王子様なん? そうくさ、うちはみんなえらいとじゃ。そう言って、父は乾いた笑いを笑った。」
探せばまだいくつもあると思います。あなたも探してみてください。
どうか、訂正しないでください。お願いします。
ホントは、こんなコト、「この文、ヘンじゃない。これでいいの?」と思ったら、社内の人に聞き、資料に当たるとかするのが、編集者の仕事だろうと思います。立派なキャリアの持ち主と認めていますから、あえて苦言を呈します。
このメールへの返信の全文はこうだった。
お世話になっております。
ご質問につきまして、早速、ご返答いただきありがとうございました。
また、分かりやすい例文を添付くださり、重ねてお礼を申し上げます。
ご指示いただいた通り、このまま出稿致します。お手数をおかけしました。
まあ、自分の質問を「ご質問」と書く人なのだから、文章がわからないのは仕方ないけど、そこへもってきて、このご仁は(たぶんこの小通信社も)、ちょっと面倒なことはやりたがらない、手抜き大好き人間でもあった。
もう一つ、小文を読んでいただこう。
ひばりの歌
家の近くの川岸の道を歩いていたら、傍らの草地からひばりが舞い上がるのが見えた。
あいにく高度難聴の耳には、さえずりは聴こえなかったが、ひばりはじつに多くの鳴き声を持っている。
空へ上がっていくときは、チーチビ、チーチビと鳴き、空中にホバリングしているときは、チュリチュリチー、ツーイ、ピチピチ、地に下りてくるときはリュ、リュ、リュ…で、1羽ごとに15種類以上もの声のパターンを組み合わせた独自のバリエーションがあるそうだ。
そう聞くと、あの天性絶妙な美声の持ち主だった昭和の歌姫の芸名に改めて感心する。
ひばりで思い出す句歌は、江戸の俳人、上島鬼貫の「草麦や雲雀(ひばり)があがるあれさがる」と、万葉の歌人、大伴家持の「うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲(こころかな)しも独りしおもへば」である。
だが、この春に最もふさわしい「ひばりの歌」は、スピッツが歌う「ヒバリのこころ」(作詞・作曲=草野正宗)だっただろう。
「僕らこれから 強く生きていこう/行く手を阻む壁が いくつあっても」
この小文に対して、こう言ってきた。
一点だけご質問ですが、
「ひばりの歌」の最後の部分のスピッツの歌詞につきまして、JASRAC(音楽著作権協会)の著作権に引っかかってしまう可能性があります。
「行く手を阻む壁があっても強く生きていこう、という内容だ。」などに変更してもよろしいでしょうか?
御多忙のところ申し訳ございませんが、ご確認の程、よろしくお願い申し上げます。
バカヤロ。そういうことは、最低限やるべきことをちゃんとやってから言えよ! とつぶやきながら、
〇〇さま。
JASRACに原文を示して、「許諾」をとることはできませんか。それでも「カネを寄越せ」と言われたら、
だが、この春に最もふさわしい「ひばりの歌」は、スピッツが歌う「ヒバリのこころ」だっただろう。「行く手を阻む壁があっても、強く生きていこう」という内容の歌詞のリフレーンに励まされる。─に変えてください。
そう返信メールを送ったら、すぐさま返事がきた。
お世話になっております。
メールを拝受致しました。早速ご確認いただきありがとうございます。
歌詞につきましては、校閲の段階でJASDACに確認を取ったそうです。すると、「著作権料が発生するでしょう」との返答がありました。ですので、ご指示いただいたように直して配信致します。
これはもう見え透いたウソである。「校閲の段階」といっても、社員数名の小さな会社で、校閲の専任者がいるわけではなく、お互いに原稿のチェックをし合っている隣の机の同僚のことなのだ。
「JASDACに確認を取」る気があるのなら、それは直接の担当者がやるべき仕事なのである。それをやりもしないで、「著作権に引っかかってしまう可能性があります」とズボラなことを言ってきて、「許諾をとることはできないか」と聞いたら、「校閲の段階でJASDACに確認を取ったそうです」とは、なんとずるい言い逃れか。
○○さま。
あ、そうですか? それを先に言ってください。
>JASRAC(音楽著作権協会)の著作権に引っかかってしまう可能性があります。─と、
>校閲の段階でJASDACに確認を取ったそうです。すると、「著作権料が発生するでしょう」との返答がありました。─とは、ずいぶんニュアンスが違いますよね。
当方はせいぜいこんなイヤミで応じるしかなかった。
この話さらに続く。次回は7月17日。
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