諭吉の教え [雑感小文]
明治16年6月、米国留学へ出立する若い兄弟に彼らの父親が与えた手紙がある。
父の名は、福沢諭吉。
長男一太郎21歳、次男捨次郎19歳。
「一、両人共、学問の上達は第二の事として、いやしくも身体の健康をそこなうべからず」と前置きした上で飲酒に関してこう説いている。
「一、一太郎は酒量深きに非ずしてむしろ酔うに易きものというべし。
畢竟(ひっきょう)気力の弱きよりして自ら制するあたわざる者なれども、幸いにして生来尚(なお)いまだ飲酒の習慣を成さず。今にしてこれを禁ずるははなはだ容易なるべければ、断然酒を飲むなかれ。
三十前後、血気定まりたる後は、いかようにも勝手なれども、学問執行中に酒に酔うなどの事ありては、人に軽侮せられて、本人の不幸は無論、父母も為(ため)に心を痛ましむること少なからず。
くれぐれも慎むべきものなり。
この一事は父母より厳に命ずるに非ず、或は父母の懇願とも申すべき箇条なれば、よくよく合点いたすべきなり」
─切々たる親心が感じられる。
このとき諭吉50歳。
アメリカに留学する息子たちへの、福沢諭吉の飲酒を戒める言葉は、百有余年後のバカな酒飲みにとっても、痛烈な頂門の一針だった。
生来まさに「酒量深きに非ずしてむしろ酔うに易きもの」であるくせに、「気力の弱きよりして自ら制するあたわざる者」であったからだ。
当然「人に軽侮せられ」、一夜明ければひどい二日酔いと自己嫌悪にうめいたものであった─と、過去形で書けるのは、年をとり、おまけにがんにもなって酒量ががたんと落ちたおかげだ。
もっとも、「三十前後、血気定まりたる後は、いかようにも勝手なれども…」という諭吉の言葉、これはいささか浅見ではあるまいか。
三十やそこらで「いかようにも勝手に」飲めるのは相当な酒豪に限られる。
やわな酒飲みはなかなかそんなわけにはいくまい。
「酒を飲むには、各人によりてよき程の節あり。
少し飲めば益多く、多く飲めば損多し。
性謹厚なる人も多飲を好めば、むさぼりてみぐるしく、平生の心を失ひ、乱に及ぶ」(『養生訓』巻四)
─益軒先生の教えをしかと心に刻みつけよう。
父の名は、福沢諭吉。
長男一太郎21歳、次男捨次郎19歳。
「一、両人共、学問の上達は第二の事として、いやしくも身体の健康をそこなうべからず」と前置きした上で飲酒に関してこう説いている。
「一、一太郎は酒量深きに非ずしてむしろ酔うに易きものというべし。
畢竟(ひっきょう)気力の弱きよりして自ら制するあたわざる者なれども、幸いにして生来尚(なお)いまだ飲酒の習慣を成さず。今にしてこれを禁ずるははなはだ容易なるべければ、断然酒を飲むなかれ。
三十前後、血気定まりたる後は、いかようにも勝手なれども、学問執行中に酒に酔うなどの事ありては、人に軽侮せられて、本人の不幸は無論、父母も為(ため)に心を痛ましむること少なからず。
くれぐれも慎むべきものなり。
この一事は父母より厳に命ずるに非ず、或は父母の懇願とも申すべき箇条なれば、よくよく合点いたすべきなり」
─切々たる親心が感じられる。
このとき諭吉50歳。
アメリカに留学する息子たちへの、福沢諭吉の飲酒を戒める言葉は、百有余年後のバカな酒飲みにとっても、痛烈な頂門の一針だった。
生来まさに「酒量深きに非ずしてむしろ酔うに易きもの」であるくせに、「気力の弱きよりして自ら制するあたわざる者」であったからだ。
当然「人に軽侮せられ」、一夜明ければひどい二日酔いと自己嫌悪にうめいたものであった─と、過去形で書けるのは、年をとり、おまけにがんにもなって酒量ががたんと落ちたおかげだ。
もっとも、「三十前後、血気定まりたる後は、いかようにも勝手なれども…」という諭吉の言葉、これはいささか浅見ではあるまいか。
三十やそこらで「いかようにも勝手に」飲めるのは相当な酒豪に限られる。
やわな酒飲みはなかなかそんなわけにはいくまい。
「酒を飲むには、各人によりてよき程の節あり。
少し飲めば益多く、多く飲めば損多し。
性謹厚なる人も多飲を好めば、むさぼりてみぐるしく、平生の心を失ひ、乱に及ぶ」(『養生訓』巻四)
─益軒先生の教えをしかと心に刻みつけよう。
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