茶寿和上の健康法話 [健康]
朝日新聞be版連載の日野原重明先生の滋味豊かなエッセー、毎週欠かさず敬読している。
8月2日掲載の「108歳まで生きた先輩医師に学ぶ」で、「足三里の灸(きゅう)」を健康の極意とした「お灸博士」こと原志免太郎医師の話を読み、三昔も前の1982年1月、京都・清水寺に大西良慶和上を訪ねたことを思い出した。活字メディアの片隅でほそぼそと生きて半世紀、最も忘れえぬ思い出の一つである。
いささかラチもないことながら、古雑誌の記事の全文を引き写してみよう。
◎灸という字は「久しい火」
「健康は何から出てくるかというと、三つあるの。よう食べて、よう働いて、よう寝る。この三つやの。
よう食べるというのは、おいしく食べるということやの。何を食べてもおいしい、と思わないかん。おいしい、と思う間が力になるの。
よう働いたら、おいしくいただける。そうしたらよう寝られる。
寝てから腹をたてて怒ったり、泣いたりしてはいかん。一度眠ったら、今度は起こされるまで起きないぐらい眠らないかん。これがよう寝るということやの。
ですから、うまいこと食事して、喜んで休み、そして朝になったら起きて、一生懸命に働く。この三つさえ、自分に合うように、上手に調和されとったら健康になる。
子どもは子ども、年寄りは年寄りに合うように、それをやっていったらよいわけやの」
本年、茶寿(数え108歳)の新春を迎えた、わが国仏教界の最長老、大西良慶和上の健康法話です。
和上は、明治8年、大和の妙楽寺─いまの談山神社(奈良県櫻井市)の宿坊の住職の次男として生まれ、15歳のとき奈良興福寺に入り、興福寺住職(26歳)、法相宗管長(31歳)を経て、現在は北法相宗管長、清水寺貫主、日本宗教者平和協議会会長を勤めておられます。
話は、100年ばかりさかのぼります。
「私は子どもの時分に病気をしたの。たしか七つか、八つのころ、全身が痛うて、痛うて、体が動けんようになったの」
いまでいうリウマチ熱のような病気だったのでしょうか。村のお医者さんは、
「とても助からんでしょう」と、首をふったそうです。
ところが、近くの八釣地蔵に願をかけ、そこに伝わる灸をしてもらったところ、みるみる快方に向かい、2、3日して往診に来たお医者さんは、ほとんど死にかけていた患児がふとんのうえに上体を起こしている姿を見て、しばらくは呆然として声が出なかったそうです。
このとき灸を受けたのは、背中など体の何カ所かのツボでしたが、以来、毎日欠かさず足の三里に灸をするのが、和上の生涯の習慣となりました。
なぜ足の三里の灸を選んだのかといえば、そこだけが他人の手を借りずにできる場所だったからです。
足の三里に灸をすえると、足が軽くなり、体の調子もよくなります。そして、それはまた、いのちを助けていただいたお地蔵さんの恵みを頂戴することでもある…そういう思いもずっと心にありました。
旅行のときも、お灸の道具は洗面道具と同じように携帯し、夜汽車の中でも忘れずに灸をしてきました。およそ100年間、足の三里の灸をつづけておられるわけです。
「灸という字は、“久しい火”と書くように、1度や2度やったからと効くというのではない。長くつづけないかん。おかげさまで病気をしません」
◎長命の根本は境遇を楽しむこと
和上のこのごろのご日常についてうかがいました。
まず、朝は5時過ぎにはもう床のなかで目をあけて、6時ごろ体を起こし、首を動かしたり、腕を動かしたり、20分ほど体操をします。つづいて、朝の冷たい空気を腹いっぱい入れて深呼吸をします。
それから、洗面をすませて、朝のお勤めです。数年前までは自坊(成就院)の裏山の持仏堂に足を運んでいましたが、いまは自坊の仏間で朝・昼・夜と1日3度の勤行(ごんぎょう)を欠かさずつとめています。
そのあと、朝食はお粥(かゆ)を軽く一膳。椀の底に梅干しと梅昆布をおき、その上にお粥をそそぎます(このお粥は昼も夜もたいてい同じです)。
10時に抹茶を一服、12時半ごろ昼食、ときにお粥の代わりにうどんかそばにすることもあります。
午後3時から3時半の間にお茶(煎茶)を飲み、6時過ぎに夕食、8時ごろ入浴、風呂から上がって灸をして、9時前後に床につく─というのが、だいたいの日々の生活だそうです。
問題の足の三里の灸ですが、これは米粒大のものを、左右のひざのわきのツボに五つ火ずつすえます。このところ目がだいぶ薄くなられたので、お付きの人がしてさしあげるようになりました。100年ものあいだ焼かれてきた灸の跡は、やや黒ずみ硬くなっているとのことです。
視力が弱くなっているといいましたが、耳も左はまったくだめで、右の耳元で少し大きな声を出さないと聞こえない、という状態です。
歯は、50年間使いつづけている入れ歯です。そのため、おかずも豆腐、湯葉、野菜のおひたし、大根や人参を煮たもの……とやわらかいものずくめです。煮物などには、植物油をちょっと落とすこともあるそうです。
「私のいただき方は、一つのものをたくさんいただかずに、少しずつ二つ三つの品をいただくようにしているの。
一つの味のものを、集中的に食べたりすると、異常になったり、胃の病気を起こしたりする。甘い物が好きやというて、甘い物をとりすぎると病気を起こす。
ですから、少しずつ、横へ食べていくようにしなければならん。少しずつのものを、上手に調和して食べるのがよいので、私の、おいしいものをいただく、というのはそういうことやの。
けれども、人間は気ままがすぎる。おいしい、と思うたらたくさん食べます。悪いと知っていても、おいしいというほうへ引かれていくの。
そのときに、このくらいで、と押さえる力が出てこないかん。それは、やはり信心でないといかん。
人間は、片手に理性を持っていて、片手には人間性を持っている。その間を通るときにどちらが強いか、というので行く道が違うてくるの」
みやまじの谷間にかけし丸太橋 柴負ふ人の心して来る
この和上の近詠は、ことしの歌会始の御題「橋」に寄せてつくられたものですが、人生という丸太橋を、煩悩という柴を負うておぼつかなく渡りかけている、これはわれわれ凡夫の姿にほかならないようです。
しかし、和上はまたこうも教えてくださっています。
「人間は、煩悩を楽しむというのが、長命の根本やの。
長命をしようと思うたら、いかなる境遇におちいっても、いかなる境界にほり込まれても、それで喜んで暮らすことがだいじやの。
人間は、自分の世界に喜びを持たなかったら、なんでも苦になる。有って苦、無くて苦になる。
ですから、このへんでよい、という打ち切りは知恵から出てくる。
故に、身体を考慮し、その場、その場を考慮し、家のことを考慮し、朝の起床のときから、食糧の調節をすれば、一切がみな極楽になる」(『良慶和上茶寿記念集』より)
このごろの和上は─、
「そばで見ておりますと、生きているのも行(ぎょう)のようでございます。ですから、もうおれの仕事はすんだと思われると、いつでもすっと行かれてしまうような、そんな不安があります」とは、ご子息の大西真興さんのことばです。
「ですから、そういうことを言い出されると困りますので、これを見てください、あれを見てください、と、常に先のほうに何か問題をおくようにしております。たとえば、次は昔寿(120歳)のお祝いですよ、と」
成就院住職で清水寺渉外部長を兼ねる真興さんは、32歳の若さながら、心の広い、立派な器量の持ち主で、そのこともまた、この日、私の得た感銘のひとつでした。
(雑誌『壮快』=1982年3月号)
追記。
「茶」という字を分解すると、二十と八十八、足し合わせると108になるので、数え108歳を「茶寿」と称する。
この正月は、和上にはことさらめでたい茶寿の新春です、と真興さんに教えられた。
耳が不自由で「右の耳元で少し大きな声を……という状態」だったので、こちらの問いはその都度、真興さんの口を経由することになった。
微かに笑みを浮かべたお顔をすこし傾けて、耳孔に注ぎ込まれる言葉を聴かれ、それからおもむろに口を開かれた。
ゆっくり…ゆっくり…かたちのいい小さな唇から発せられる一語、一語が、脳髄にしみ透るようだった。
小1時間ほどの対座ののち辞して清水寺の坂を下る足は宙に浮き、頭といわず心といわず体じゅうが、えもいえぬ熱いもので満たされていた。
良慶和上の訃に接したのは、この翌年─1983年2月だったが、あの至福のひとときを思い出すたび、いまも新たな感動がひたひたと満ちてくる潮のように胸にあふれるようである。
注1・リウマチ熱=5歳~15歳の小児がかかる病気。発熱、関節炎が起こり、心臓にも炎症が及ぶ。日本では少なくなったが、発展途上国ではまだ多くの患児がみられる。
注2・三里のツボの探し方=ひざを軽く曲げて立て、手の親指と人差し指を直角に開き、膝蓋骨(ひざのお皿)をはさむようにピタリと当てる。そして、人差し指を脛骨(すねの骨)に真っすぐそわせたとき、中指の先が当たるあたり、強く押すととくにズン!とくる一点、そこが「足の三里」だ。(腕にも「手の三里」と呼ばれるツボがあるが、単に「三里」といえば足の三里を指す)。
8月2日掲載の「108歳まで生きた先輩医師に学ぶ」で、「足三里の灸(きゅう)」を健康の極意とした「お灸博士」こと原志免太郎医師の話を読み、三昔も前の1982年1月、京都・清水寺に大西良慶和上を訪ねたことを思い出した。活字メディアの片隅でほそぼそと生きて半世紀、最も忘れえぬ思い出の一つである。
いささかラチもないことながら、古雑誌の記事の全文を引き写してみよう。
◎灸という字は「久しい火」
「健康は何から出てくるかというと、三つあるの。よう食べて、よう働いて、よう寝る。この三つやの。
よう食べるというのは、おいしく食べるということやの。何を食べてもおいしい、と思わないかん。おいしい、と思う間が力になるの。
よう働いたら、おいしくいただける。そうしたらよう寝られる。
寝てから腹をたてて怒ったり、泣いたりしてはいかん。一度眠ったら、今度は起こされるまで起きないぐらい眠らないかん。これがよう寝るということやの。
ですから、うまいこと食事して、喜んで休み、そして朝になったら起きて、一生懸命に働く。この三つさえ、自分に合うように、上手に調和されとったら健康になる。
子どもは子ども、年寄りは年寄りに合うように、それをやっていったらよいわけやの」
本年、茶寿(数え108歳)の新春を迎えた、わが国仏教界の最長老、大西良慶和上の健康法話です。
和上は、明治8年、大和の妙楽寺─いまの談山神社(奈良県櫻井市)の宿坊の住職の次男として生まれ、15歳のとき奈良興福寺に入り、興福寺住職(26歳)、法相宗管長(31歳)を経て、現在は北法相宗管長、清水寺貫主、日本宗教者平和協議会会長を勤めておられます。
話は、100年ばかりさかのぼります。
「私は子どもの時分に病気をしたの。たしか七つか、八つのころ、全身が痛うて、痛うて、体が動けんようになったの」
いまでいうリウマチ熱のような病気だったのでしょうか。村のお医者さんは、
「とても助からんでしょう」と、首をふったそうです。
ところが、近くの八釣地蔵に願をかけ、そこに伝わる灸をしてもらったところ、みるみる快方に向かい、2、3日して往診に来たお医者さんは、ほとんど死にかけていた患児がふとんのうえに上体を起こしている姿を見て、しばらくは呆然として声が出なかったそうです。
このとき灸を受けたのは、背中など体の何カ所かのツボでしたが、以来、毎日欠かさず足の三里に灸をするのが、和上の生涯の習慣となりました。
なぜ足の三里の灸を選んだのかといえば、そこだけが他人の手を借りずにできる場所だったからです。
足の三里に灸をすえると、足が軽くなり、体の調子もよくなります。そして、それはまた、いのちを助けていただいたお地蔵さんの恵みを頂戴することでもある…そういう思いもずっと心にありました。
旅行のときも、お灸の道具は洗面道具と同じように携帯し、夜汽車の中でも忘れずに灸をしてきました。およそ100年間、足の三里の灸をつづけておられるわけです。
「灸という字は、“久しい火”と書くように、1度や2度やったからと効くというのではない。長くつづけないかん。おかげさまで病気をしません」
◎長命の根本は境遇を楽しむこと
和上のこのごろのご日常についてうかがいました。
まず、朝は5時過ぎにはもう床のなかで目をあけて、6時ごろ体を起こし、首を動かしたり、腕を動かしたり、20分ほど体操をします。つづいて、朝の冷たい空気を腹いっぱい入れて深呼吸をします。
それから、洗面をすませて、朝のお勤めです。数年前までは自坊(成就院)の裏山の持仏堂に足を運んでいましたが、いまは自坊の仏間で朝・昼・夜と1日3度の勤行(ごんぎょう)を欠かさずつとめています。
そのあと、朝食はお粥(かゆ)を軽く一膳。椀の底に梅干しと梅昆布をおき、その上にお粥をそそぎます(このお粥は昼も夜もたいてい同じです)。
10時に抹茶を一服、12時半ごろ昼食、ときにお粥の代わりにうどんかそばにすることもあります。
午後3時から3時半の間にお茶(煎茶)を飲み、6時過ぎに夕食、8時ごろ入浴、風呂から上がって灸をして、9時前後に床につく─というのが、だいたいの日々の生活だそうです。
問題の足の三里の灸ですが、これは米粒大のものを、左右のひざのわきのツボに五つ火ずつすえます。このところ目がだいぶ薄くなられたので、お付きの人がしてさしあげるようになりました。100年ものあいだ焼かれてきた灸の跡は、やや黒ずみ硬くなっているとのことです。
視力が弱くなっているといいましたが、耳も左はまったくだめで、右の耳元で少し大きな声を出さないと聞こえない、という状態です。
歯は、50年間使いつづけている入れ歯です。そのため、おかずも豆腐、湯葉、野菜のおひたし、大根や人参を煮たもの……とやわらかいものずくめです。煮物などには、植物油をちょっと落とすこともあるそうです。
「私のいただき方は、一つのものをたくさんいただかずに、少しずつ二つ三つの品をいただくようにしているの。
一つの味のものを、集中的に食べたりすると、異常になったり、胃の病気を起こしたりする。甘い物が好きやというて、甘い物をとりすぎると病気を起こす。
ですから、少しずつ、横へ食べていくようにしなければならん。少しずつのものを、上手に調和して食べるのがよいので、私の、おいしいものをいただく、というのはそういうことやの。
けれども、人間は気ままがすぎる。おいしい、と思うたらたくさん食べます。悪いと知っていても、おいしいというほうへ引かれていくの。
そのときに、このくらいで、と押さえる力が出てこないかん。それは、やはり信心でないといかん。
人間は、片手に理性を持っていて、片手には人間性を持っている。その間を通るときにどちらが強いか、というので行く道が違うてくるの」
みやまじの谷間にかけし丸太橋 柴負ふ人の心して来る
この和上の近詠は、ことしの歌会始の御題「橋」に寄せてつくられたものですが、人生という丸太橋を、煩悩という柴を負うておぼつかなく渡りかけている、これはわれわれ凡夫の姿にほかならないようです。
しかし、和上はまたこうも教えてくださっています。
「人間は、煩悩を楽しむというのが、長命の根本やの。
長命をしようと思うたら、いかなる境遇におちいっても、いかなる境界にほり込まれても、それで喜んで暮らすことがだいじやの。
人間は、自分の世界に喜びを持たなかったら、なんでも苦になる。有って苦、無くて苦になる。
ですから、このへんでよい、という打ち切りは知恵から出てくる。
故に、身体を考慮し、その場、その場を考慮し、家のことを考慮し、朝の起床のときから、食糧の調節をすれば、一切がみな極楽になる」(『良慶和上茶寿記念集』より)
このごろの和上は─、
「そばで見ておりますと、生きているのも行(ぎょう)のようでございます。ですから、もうおれの仕事はすんだと思われると、いつでもすっと行かれてしまうような、そんな不安があります」とは、ご子息の大西真興さんのことばです。
「ですから、そういうことを言い出されると困りますので、これを見てください、あれを見てください、と、常に先のほうに何か問題をおくようにしております。たとえば、次は昔寿(120歳)のお祝いですよ、と」
成就院住職で清水寺渉外部長を兼ねる真興さんは、32歳の若さながら、心の広い、立派な器量の持ち主で、そのこともまた、この日、私の得た感銘のひとつでした。
(雑誌『壮快』=1982年3月号)
追記。
「茶」という字を分解すると、二十と八十八、足し合わせると108になるので、数え108歳を「茶寿」と称する。
この正月は、和上にはことさらめでたい茶寿の新春です、と真興さんに教えられた。
耳が不自由で「右の耳元で少し大きな声を……という状態」だったので、こちらの問いはその都度、真興さんの口を経由することになった。
微かに笑みを浮かべたお顔をすこし傾けて、耳孔に注ぎ込まれる言葉を聴かれ、それからおもむろに口を開かれた。
ゆっくり…ゆっくり…かたちのいい小さな唇から発せられる一語、一語が、脳髄にしみ透るようだった。
小1時間ほどの対座ののち辞して清水寺の坂を下る足は宙に浮き、頭といわず心といわず体じゅうが、えもいえぬ熱いもので満たされていた。
良慶和上の訃に接したのは、この翌年─1983年2月だったが、あの至福のひとときを思い出すたび、いまも新たな感動がひたひたと満ちてくる潮のように胸にあふれるようである。
注1・リウマチ熱=5歳~15歳の小児がかかる病気。発熱、関節炎が起こり、心臓にも炎症が及ぶ。日本では少なくなったが、発展途上国ではまだ多くの患児がみられる。
注2・三里のツボの探し方=ひざを軽く曲げて立て、手の親指と人差し指を直角に開き、膝蓋骨(ひざのお皿)をはさむようにピタリと当てる。そして、人差し指を脛骨(すねの骨)に真っすぐそわせたとき、中指の先が当たるあたり、強く押すととくにズン!とくる一点、そこが「足の三里」だ。(腕にも「手の三里」と呼ばれるツボがあるが、単に「三里」といえば足の三里を指す)。
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