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おれの耳は「龍の耳」 [エッセイ]

 「今夜はだれと会えるかな?」

 寝床の中の眠りかけにふとそう思うことがある。この世ではもう会えない祖母、両親、恩師、久しくご無沙汰の先輩、友人、懐かしい人たちとの思いがけぬ再会…。夢のなかには貧乏な引っ込み思案の年寄りとは別人の快活な自分がいて、談笑したり、突拍子もないふるまいをしでかしたり、そして、ちゃんと聴こえている。

 夢からさめて、そのことに気づいたときはなんだかちょっとうれしい。

 夢のなかでもまるで聴こえず、何度も「えっ? えっ?」と聞き返したり、「書いてくれる」とメモ帳とボールペンを差し出したりするときは、眠りが浅く、夢とうつつの境目がごっちゃになった感じで、目覚めの気分もよくない。

   

 21年前にまず右耳がこわれた。60歳だった。

 肝臓を3分の1、切除する手術を受けたあとの全身麻酔から醒めるなり、なんともすさまじい痛みに襲われて、呻きつづけた。その激烈なストレスが原因だったのだろうか。
 退院して数日たったころ、右耳の聴こえがおかしいことに気づき、耳鼻咽喉科を受診、「重度感音難聴」と診断された。

 以来14年、左耳だけで暮らしてきた。

 片耳難聴だと、そちら側(私だと右側)にいる人の言葉が聞きとりにくかったり、音のくる方角がわからなかったり、多少不便ではあるが、さほど支障は感じなかった。


 ところが、2006年、左耳もこわれた。

 5月半ばの朝、目が覚めたら左耳がボァーンと詰まっていた。飛行機に乗ったときに生じる耳閉感に似ている。
 家の近くの耳鼻咽喉科医院を訪ねて、耳管に空気を送り閉塞をとりのぞく通気治療をやってもらったが、効果なし。「大きい病院へ─」と言われた。

 翌日、妻に付き添われて、都心の耳鼻咽喉科専門病院を受診したときは、もうほとんど何も聴こえなくなっていた。

 医師が質問を机上の紙に記し、こちらは口で答える片側筆談による問診、聴力検査、頭部X線検査その他の結果、「急性感音難聴」と診断された。

「突発性難聴とはどう違うのですか」と聞いたら「ほぼ同じ」、「原因はなんでしょう」には首をひねり「? ? ?」、疑問符が三つ、横並びに記された。

 早速、その日から治療が始まった。
 ベッドに仰臥し、片腕のシャツをまくって点滴注射を受けながら、鼻と口にかぶせた酸素マスクから「混合ガス」を吸入する。

 純酸素+二酸化炭素五%の混合ガスは、脳へいく血管を広げて内耳の血流をふやし、点滴のグリセオール(利尿薬)とかプレドニン(副腎皮質ホルモン薬)といった薬もやはり脳の血流を改善し、内耳の神経障害を修復するということだった。

 1日1回約60分、連続12日間(土・日も通院)のワンクール終了後は、同じ治療を隔週土曜日に行い、併せて脳循環代謝改善薬のアデホスとケタス、メチコバール(ビタミンB12錠剤)の服用を7月末まで続けた。

 だが聴力の回復はならず、ほとんど全聾に近い両耳の「重度感音難聴」が完成した。




 ─そして補聴器生活が始まって、まずなによりもうれしかったのは、自分の声が聴こえるようになったことだ。

 人が口から言葉を発するときは、自分の耳でもその言葉を聞いている。失聴状態だと、口から出た言葉がそのままふわふわ空中に消えていくようだった。

 自分の声が聴こえないので、声量のコントロールができない。病院の待合室や電車の中などで、声を抑えるようにと妻に手まねで制されることが何度もあった。

 補聴器をつけて自分の声が耳から入ってきたときのよろこびを一言でいえば、「言葉が戻った!」であった。



 補聴器にはいろいろ多くの機種がある。

 病院の紹介で訪ねた補聴器専門店で、認定補聴器技能者のTさんが選んだ二つか三つの機種を試し聴きしたあと、重度難聴用ポケット型補聴器のイヤホンを耳にはめてコードを伸ばし、机を隔てたTさんの口元に本体を近づけると、「あ~あ~」というTさんの声が他の機種よりも耳に強くひびいた。「あ、よく聴こえる。これにします」。

 ありがたいことにそれはデジタル式耳あな型補聴器などに比べると格段に安価だった。


「おれの耳は安いなあ」と言って笑った。

 しかし、声が聴こえることと、言葉が聞き分けられることとは、全然同じではなかった。

「話す人の口元20㌢ぐらいで、普通の声の大きさで、ゆっくり、はっきり、話していただくと、だいたい半分は理解できます」

 そう教えてくれたTさんの言葉はすべてよく聴き取れたが、それはいつも難聴者を相手にしている専門家だからで、たぶん発声法が違うのだろう。ほかの人のばあい、なかなかそんなふうにはいかない。

 たとえば─、

 元日の朝、ウォーキング仲間のおくさんたちと近くの臨海公園に初日の出を拝みに行った妻が、「おじさんが見えたわよ」と言う。夫妻同伴のペアもあったのだろうが、「おじさん」はひどいよと言ったら、「富士山が見えた」だった。

 かかりつけ医のH先生に、長寿健診の結果を聞きに行ったら、「運動をしっかり」とおっしゃる。
「はい。毎日1時間歩いてます。そのうちざっと500㍍は後ろ歩きです」

 得意顔で答えたところ、「えっ?」とけげんな表情を浮かべ、笑って、ホワイトボードに「うどん、おいしかった」と書いた。

 しばらく前に名古屋の友人から「みそ煮込みうどん」をたくさん送ってもらったので、妻が少しばかりおすそ分けした。そのお礼を言われたのだった。
「ロシアは最近よく日本の女性をアホするわね」という意味不明の発言を二度、三度聞き返し、「女性」が「漁船」で、「アホする」が「拿捕する」だとわかる。
 花→穴、食事した→即死した、向学心→工学士、勉強→米朝、樹木希林→息切れる、椿山荘の催し→死んだ人の催し(左が正→右が誤)。  その都度、面白がってメモした聴き違いには、子音や拗音や撥音が消えたり、濁音が混合したり、なにか法則みたいなものが類推できるようだったが、「小林秀雄」がなぜ「こごえ死んじゃう」に聴こえたのか。「発音がおかしいんじゃないのか」とクレームをつけて、モメたりした。

 何度聴き返しても正解に辿りつけないときは手持ちボードに記したり、複雑な話は最初から紙に書いたり、私の聾後、妻は文字を書く機会が断然ふえた。それはもしかしたら認知症予防にも役立っているのではないだろうか? 夫、聾すれば、妻、ボケず!?

 ともあれ、「あなたの難聴には補聴器の効果はあまり期待できません」と言った主治医の告知はまったく正しかった。

 言うまでもなく、電話もラジオも聴くことができない、
   *

 かくて老聾の身をかこつこと七年有余─。

 小学1年生が中学2年生になる歳月を経たわけだが、私の耳はずっと一年坊主のままで、語音聴力検査というのを受けると、「ア」と「イ」の聴き分けも覚束ない。
 それは最初からそうなので、ならば読唇術とか手話とか、学習意欲のある人だったらなにかしら習得する時間は十分あったはずなのに、なにもしなかった。
 そして、すっかり出不精になった。人と会ってもあまり楽しくないからだ。人と会っても、話が聞けない、談笑の輪に入れない、楽しいわけがない。

 人の話を聞くことができなくなって、いまさらのように人と人とは言葉でつながっているものであると思い知り、人とのつながりを失った人間は、生きている意味がないように思われた。

 コンクリート長屋の4階の部屋から外へ出るのは1日1回、目の前に見える荒川の堤防上の道を小一時間歩くときだけ。ほとんど閉じこもり同然の生活である。
 世間がぐんと狭くなった。いや、世間がなくなった。これじゃ半分死んでいるようなものではないか。
 では、どうする? どうすべきか? トゥビー オア ノット トゥ ビー 八十爺さんのハムレットもどきはいかにも未熟、コッケイでさえあるかもしれないが、当人はけっこう深刻、朝晩の寝床の中などで悶々と思い悩んだ挙句、こう思うことにした。

 せっかく傘寿と呼ばれる年まで生きたのである。せっかく聾というめったに得られぬ体験に恵まれたのである。聾を嘆かず、楽しむことにしよう。
「失った機能を惜しみ、悲しむのではなく、残っている機能をいかに活かすか、それがリハビリの根本精神なのです」とリハビリテーションの専門医は言っている。

 聾を嘆くあまり、私は聾が与えてくれた大きなメリットを一つ、忘れていた。騒音からの解放である。
 身近な例でいえば、以前は、妻の台所仕事などの音で朝寝や昼寝の安眠を妨げられることがままあった。いまや、まな板のトントンどころか、近所に雷が落ちようが、選挙カーがやって来ようが、どこ吹く風である。

「よく眠っていられるわね」

「おれさまの耳は龍の耳だからな。俗界の雑音なんぞにはピクともしないのさ」
 さて─、

 あとどれくらい、こんな老聾介護の二人三脚を続けていけるだろうか。

 それはわからないが、いまはただ、この小さな暮しをいとおしみつつ静かに生きていきたい。そう願っている。

 ときどき、面白い夢をみたりしながら……。

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