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泣くか、跳ぶか。 [日記・雑感]

「会社をやめたい。やめることができたらどんなにサッパリするだろう」

 年少の友人が言った。苦悩が顔に滲み出ていた。

「しかし、いま、やめるわけにはいかない。こんな時勢だし、家庭の事情もある」

 なぜ、やめたいのか。

 要するに社内で不遇な立場に置かれているということらしい。

 春の異動で自分の望まぬ部署に回された。

 仕事が面白くない。

 上司ともうまくいってない。

「ストレスがたまるばかりだ」という。

 このような話は、病気についての訴えに似て、他者には当人の苦悩が的確に伝わりにくい。

 当人の置かれたさまざまに微妙で、複雑で、深刻な状況は所詮、当人にしかわからないものだからだ。

 それに、言葉は必ずしも事実の正確なトレース(引き写し)ではない。

 事実は部分的にトリミング(切り取り)され、ときにはリフォーム(作り変え)されている。

 話し手によって大なり小なりデフォルメ(変形)された事実を、聞き手の理解や想像がさらに変形してしまうこともある。

 だから、どう思うかと問われても困る。

 当人が無数の細かな考慮を重ねた上で到達した結論に、憶測まじりの傍観者の意見を加えることにどれほどの意味があるだろうか。

「つまり、君は、跳ぶことよりも泣くことを選んだわけだろう。それもまた勇気ある選択だと思う」

 とだけ私は答えた。

 共通の故郷(鹿児島)をもつ友人には、それで通じた。

 昔、たがいに村の悪ガキだったころ、土堤や石垣などの上で立ちすくむ子がいると、仲間たちは声を揃えて囃したてたものだった。

「泣こかい、跳ぼかい、泣こよっか、ひっ跳べ!(泣こうか、跳ぼうか。泣くくらいなら思い切って跳んでしまえ!)」

 泣くなかれ。跳ぶべし。

 これが薩摩の男の子の〃法律〃だった。 

 そして、それが薩摩の男たちの精神形成の核になった―というのが言い過ぎなら、情念の美学のようなものを育てた。

 実際、私自身、長じて何かの決断を迫られたとき、この囃し文句が頭の中で鳴りひびく気がしたことが、何度かあった。

 すなわち何度か軽率に跳んだ。

 そう、それはほとんど常に軽率な跳躍だった。

 軽挙妄動の類いだった。

 考えてみると、跳ぶことよりも泣くことのほうが、本当はずっと難しい。

 何もかも放棄して跳んでしまいたくなったとき、粘り強く耐えて事態を打開し、解決する努力をするのは、決してめめしく泣くのと同じではない。

 大の男がじっと耐えてこらえて泣いているように見えるのは、はた目にはあまりカッコいいものではないかもしれない。

 しかし、それこそ真に男らしい勇気に支えられた行為、性根のすわった生き方ではないだろうか。

 跳ぶのはいつでも跳べる。跳ぶ前に、とりあえず、泣いてみてはどうか。

 むろん、それは是非とも「顔で笑って、心で泣いて」でなければならないだろうが、そうすれば新しい明るい展望が開けることがあるのではないだろうか。

 もっとも、言わずもがなのつけたしだが、いついかなる場合も必死に木の枝にしがみついて離さない、高所恐怖症のサルみたいであるのは、いただけない。

 決然と跳ばねばならぬときもあるだろう。

 その決断のとき、出処進退を誤らぬのが、人のなかで生きていく心得ではあるだろう。

 おとなの長泣きは、みっともない。

 第一、はた迷惑だ。
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